本日のテーマは「ビジネスの秘訣は先に与えること」です。
明日は各ドリームスタジオのスタッフたち全員が集まり、毎年恒例の歳の初めの営業会議の日であり、役職者以上全員参加の勉強会の日でもあるのです。
今回の勉強会のメインのテーマは、前回10月のテーマ同様、イノベーションであり、会社全体がイノベーション体質の社内文化を持てるようになるまで、全員で学び続ける予定です。
以前より、ドラッカーマネッジメントを学び続け、折に触れて社内で勉強会を繰り返してきているので、昔の当社に比べると、相当顧客志向になっているのですが、次に当社に欠けているのが、イノベーション体質に会社全体を変えることであり、その次がマーケテイング体質に変えることなのです。
一番の課題は私一人が理解するのではなく、会社全体がイノベーション体質になり、それがすべてのスタッフの日々の行動に落とされていなければ、意味がないのです。
そして、DNAとして、私の代だけではなく、延々と受け継がれていかなければいけないので、会社全体をイノベーション体質にし、そのDNAを延々と受け継がれていくようにするのが、これからの重要な私の使命なのです。
会社全体の体質を変えるのは、すでに創業40年を経過した会社であるので、少し時間がかかるのです。
それは、どうしても今までの安心領域を離れなければいけないので、頭では良いと思っていることでも、実行に移すとなれば、スタッフたちの抵抗が大きく、場合によれば、賛成しないスタッフは、辞めてしまうことにも成りかねないのです。
私も約20年前に、当社の使命を「麺専門店繁盛支援会社」と明確にしたとき、年中無休365日のメンテナンスを始めようとしたのです。
これは長い目で見れば、当社にとっても、お客さまにとっても、業界にとっても良いことであると思ったのですが、社内のスタッフたちにとっては、痛みが伴なうので、当初は誰も賛成してくれなかったのです。
社内のスタッフに痛みが伴うだけでなく、会社にとっても休日出勤のための手当てが必要になるので、負担が大きくなるのです。
併せて、みんなの協力がなければ、私一人では出来ないので、みんなの説得を続けたのですが、今のように社員の人数も多くなかったので、なかなか難しく、反対した一部の人は残念ながら辞めてしまい、賛同して残ったスタッフたちが頑張って、やり抜いてくれたのです。
そのお蔭で、お客さまの信頼を獲得し、業界トップのシエアを確保することが出来、今日に至ることが出来たのです。
ビジネスで成功するには、お客さまの信頼を獲得することは欠かせず、何ごとも顧客志向で、お客さまの利便性、お客さまのメリット追求ばかりを追い求めると、それらのことは、われわれにとって、最初は痛みであることがほとんどであるのです。
「ビジネスの秘訣は先に与えること」であり、「先に犠牲を払うことなく、何も得ることは出来ない」のであるということを、20年前に起きたことを通じて、貴重な体験をしているのです。
同時に、このことがわれわれに与えてくれた貴重な教訓は、「目先の損得を考えず、長い将来を見通すことの大切さ」であったのです。
目先の損得だけを考えると、年中無休365日のメンテナンスは当社にとって、たいへんな負担であり、今年も元旦から本社にはメンテナンス専任の担当スタッフが交代で出勤し、お客さまからの緊急電話を受けているのです。
年末も大晦日の31日まで、メンテナンスの一番手薄だった静岡県へ、本社のメンテナンススタッフが交替でホテルを借り、緊急メンテナンス出動のために待機していたのです。
そのお蔭で、いくつかのメンテナンスが無事に終わり、お客さまからたいへん喜ばれたとの報告を受けたのです。
このように、年中無休365日のメンテナンスは、ほとんどのスタッフが反対した20年前では考えられないような状態になり、当社の社内文化になり、DNAになっているのです。
従って、何か新しいことを始めようとすると、今までの安心領域から逸脱することになるので、社内のスタッフたちは、最初は反対することが多く、社内のスタッフを説得し、スタートするのがトップの重要な役目になるのです。
明日の営業会議でも、お客さま方の幸せ、メリットを追求すれば、スタッフたちには、痛みになるようなことを幾つか頼まざるを得ないのです。
ビジネスは、常に安心領域からはみ出し続けることであることがよく分かり、情熱と若々しいエネルギー、勇気、そして諦めない忍耐力がいつも必要であるのです。
昨年2月21日から始まった、半年間以上に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びの最終のまとめに取り組んでいきます。
「開発研究」
「知識ニーズ」
イノベーションの機会としてのニーズには、プロセス・ニーズと労働力ニーズが、最も一般的でありますが、利用がより難しく、より大きなリスクを伴ってはいるが、非常にしばしば重要な意味を持つニーズとして、知識ニーズがあり、(科学者の「純粋研究」に対置されるものとしての)「開発研究」の目的としてのニーズであり、そこには、明確に理解し、明確に感じることの出来る知識が欠落していて、その知識ニーズを満たすためには、知的な発見が必要になるのです。
写真ほど非常に早い速度で成功したイノベーションはあまりなく、写真の歴史をウイキペデイアで調べると、最初の写真は、1827年にフランス人発明家ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス (Joseph Nicéphore Niépce) による、石油の派生物であるユデアのアスファルト(瀝青)を塗布した磨いたシロメ(白鑞)の板に作成された画像で、彼はもともと石版画制作に興味を持っており、やがて手で彫るのではなく光で自動的に版を作る方法を模索し、瀝青は光に当てると硬くなって水に溶けなくなるため、これを使って印刷用の原版を作ろうとし、彼はこれをカメラ・オブスクラに装填して自然の映像を定着させることを思いつき、試行錯誤の結果1827年に自宅からの眺めを写した最初の写真を撮影したのですが、カメラによる画像ではあったにもかかわらず、明るい日光の下(もと)、8時間もの露出が必要だったのです。
その後ニエプスは、1724年のヨハン・ハインリッヒ・シュルツの発明に基づき、銀化合物を使った実験を始め、これが銀塩フィルムの元になり、写真は、発明後20年で世界中に普及し、有名な写真家も大勢現われ、マシュー・プレデイの南北戦争の写真は、今日でも抜きんでていて、1860年頃(明治維新の8年前)には、あらゆる花嫁が写真を撮って貰っていて、日本に最初に入った西洋の技術も写真であり、明治維新の前、まだ日本が外国人や外国の事物に固く門戸を閉ざしていた頃でした。
写真が素人の趣味になったのが、1870年前後であるのですが、当時の写真の技術は、素人にとっては厄介な代物で、重く壊れやすいガラス板を原板として使っていたために、慎重に扱わなければならなく、カメラ自体も重く、撮影前の準備もたいへんだったので、誰もがそのような問題を知っていて、事実、最初の大衆向け専門誌である当時の写真専門誌には、写真撮影に伴うもろもろの問題や解決策が取り上げられていたのですが、1870年当時の科学や技術では解決出来なかったのですが、1880年代の半ば、遂に新しい知識が得られ、イーストマン・コダックの創立者ジョージ・イーストマンが、それらの知識を利用したのです。
彼はガラス板を、重さなどないに等しく、手荒な取扱いにも耐えるセルロイドに代え、カメラ自体も軽量化し、10年後にはイーストマン・コダックは世界の写真業界でトップの地位を得、永くその地位を保っていたのですが、デジタル・カメラの登場により、2012年1月に倒産し、132年の長い歴史を終えたのです。
以上のように、写真の歴史は進化するために、常に新しい知識を必要として、新しい知識の開発に伴って進化し、プロセス・ニーズを満たす上でも、しばしばこの開発研究が必要となり、ここでも、まずニーズを知り、何が必要であるかを明らかにし、そうしてはじめて、必要な新しい知識を生み出すことが出来、プロセス・ニーズに基づいて、開発研究を行なった典型的な人間が、エジソンであり、電力産業が産業として成立するであろうことは、20年以上の間、知らない者はなく、特にその最後の5,6年では、プロセスの1部で欠けているものが電球であると明らかになっていて、電球がなければ、電力産業は成立しなかったので、エジソンは電力産業を、単なる可能性から現実のものとするうえで、必要な知識を明確にし、開発研究に取り組み、2年後、実用的な電球を開発したのです。
「的を絞る」
今日、可能性を現実のものとするための開発研究は、企業の研究所はもちろん、国防、農業、医療、環境保護などのための研究所において行われ、開発研究というと大規模なものに聞こえ、多くの人たちにとって、それは、月への人を送ることや、小児麻痺のワクチンを発見することを意味するのですが、成功を収めているものの多くは、目標の明確な小さなプロジェクトであり、開発研究は、的を小さく絞るほど良い結果が得られ、その最もよい例、恐らくプロセス・ニーズに基づくイノベーションの最も成功したものが、日本の自動車事故を3分の1に減らした視線誘導標の開発だったのです。
1965年以降、日本では車の普及に合わせて道路の舗装が急速に推進され、車はスピードを出せるようになったのですが、日本の道路は、基本的には10世紀のままで、2台の車がすれ違うのがやっとなど、道幅が狭く、死角のあるカーブも多く、数キロごとにいろいろな角度で交差していたため、とくに夜間は自動車事故が増え、マスコミや野党は対策を要求したが、道路を作り直すには20年もかかるので、作り直すわけにはいかなく、安全運転を呼びかける大掛かりな広報キャンペーンも、ほかのあらゆる種類のキャンペーンと同じように、効果はほとんどなかったのですが、この危機的な状況をイノベーションの機会として捉えたのが、岩佐多聞という若者で、彼はビーズ状のガラス球が、あらゆる方向からの光を反射する視線誘導標をつくり、やがて、日本の自動車事故は大幅に減ったのです。
「タイム」の例
もう1つの例をあげると、第1次世界大戦後、アメリカでは国民がニュースを求め始めたのですが、誰もがこの変化に気づいたので、第1次世界大戦直後の新聞や雑誌には、いかにしてこの新しいニーズに応えるかを論じる記事がたくさん出ていて、地方紙では解決出来ない問題で、「ニューヨーク・タイムズ」をはじめとする大手の新聞社や出版社さえ、このニーズを捉えようとして失敗し、そのとき、ヘンリー・ルースが現われ、ニーズを明確にし、求められているものを明らかにし、発行部数や広告の関係からして、全国的なメデイアであることが必要だったのですが、多くの人たちが関心を持つニュースの数は限られており、日刊紙とすることは無理だったので、以上より、知識ニーズはプロセス・ニーズと深い関係があるものが多く、プロセス・ニーズを解決するために、知識ニーズが発生し、こうして世界最初のニュース週刊誌「タイム」が生まれ、直ちに成功したのです。
以前に説明しましたうどんの熟成工程における熟成庫は、プロセス・ニーズにより出来上がったものではありますが、その過程において、熟成のメカニズムという知識ニーズの解決が伴っていたので、このように、ほとんどのプロセス・ニーズには、知識ニーズが伴うのです。
画像は、12年前に完成した元の営業本部で、5年前に宇多津に本社移転してから、2階は私の筋トレルームになり、1階のだし工場跡は、讃匠の売店になっています。
今年から新しい新規ビジネスがここからスタートします。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。