昨日の午前中は社内打合せ、昼に本社を出て、讃匠のスタッフと一緒に電車の中で打合せしながら、岡山まで来て、新幹線で博多に入り、ドリームスタジオ福岡で打合せの後、夕食をお客さまと一緒に取りました。久しぶりに博多へ来て、スタッフたちと打ち合わせている
と、普段気付かない、貴重な情報を得ることが出来、メー
ルのやり取りだけではわらかなかったことが分かるので、
当社のように拠点が各地に散らばっている場合は、定期的
な訪問は欠かせず、もうすぐ年末なので、年末までに各地
のスタッフ訪問を済ませます。
創業して約20年間の私の移動は車が多かったので、移動中に仕事をすることはほとんど出来なかったのですが、最近の移動はほとんどが乗り物で、地方でスタッフと車で移動している間も100Vの車載電源があれば、ぜんぜん不便なことはないのです。
経営者はつねに成果を上げることを考えて行動していますが、成果を上げる第一段階として、当社のスタッフを見ても、時間の有効な活用が出来ているスタッフほど、成果を上げています。
スタッフの仕事にしろ、私の仕事にしろ、成果を上げようとすると、いかに時間当たりの仕事の量と質を上げることであり、成果はすべて投入した時間と質のレベルとの関係なのです。
新人で慣れないころは、仕事の能力が低く、質が充分でないので、時間でカバーしなければいけないのですが、能力が上がるに従って、時間、すなわち量だけでなく、質のレベルが上がっていくのです。
だから、新人のころにシッカリと時間をかけて、量を稼ぎ、ある程度ベテランになってくると、質の高い仕事を目指すべきなのです。
成果を上げることについて言えば、一番分かり易い成果指標として売上については、例えば、昨対比の売上を2倍にしようとすると、単純に言えば、昨年1年間で上げた売上を半年間で上げれば良いだけのことであり、やっていることをすべて、時間短縮すれば良いだけなのです。
その場合、普通考えると、寝ないで仕事をしなければならないような錯覚になりますが、そうではなく、成果を上げることに関連した要素(パラメーター)の内容の質を上げることで解決するのです。
例えば、麺ビジネスの場合、商品力だけで上げようとすると、2倍のレベルに上げる必要がありますが、サービスレベルも同時に上げると、せいぜい1.4倍づつ上げると、相乗効果で十分に2倍になるのです。
以上のように量と質を上手に組み合わせることにより、今まで出来なかったことが出来るようになり、成果を上げる近道になるのです。
知識労働の時代に成果を上げることが出来るかどうかは、担当者自身の能力、取り組み方の姿勢(努力)、考え方でほとんどが決まり、特に考え方(素直、プラス発想、学び好き)の要素が大きいのです。
だから、多少能力は低くても、責任感があり、どうしても成果を上げなければいけないと思い、意欲を持って取り組むのと、そうでないのとでは結果がまったく異なるのです。
昨日のNPSの指標では、アンケートでの採点尺度として0から6までは批判者で、7から8が中立者、9から10だけが推奨者であり、今までの常識からすれば、非常に辛い採点に見えるのです。
しかし、現在のお客さまの判断ではこれが常識であり、点数の高いファン客作りが重要で、ファン客にならなければ、もっと良い店が出来れば、一度にいなくなるお客さまであるのです。
今朝も福岡市の西の外れにあるビジネスホテルに宿泊し、朝から散歩して、ホテルに帰り、ホテルで朝食をとると、高くはない価格ですが有料で、決して満足出来る内容ではなかったのです。
もし、私がこのホテルの朝食に点数を付けるとすると、5ないし6で、批判者になるのです。
昔は5~6点は批判者ではなく、中間の点数であったのですが、今は7~8が中間の点数で、7~8点でも意味がなく、9点以上でなければ評価されていないのです。
こうして、われわれが利用しているホテル、飲食店の商品、サービスをすべて点数で付けてみると、成功しているビジネスほど、高い点数を得ていることが分かり、9から10の評価をたくさん得て、ファン客をたくさん作ることが出来ないと、現在のビジネスの勝者になれないことがよく分かります。
自社の商品、サービスも第三者に点数を付けて貰うと、いかにレベルが充分でないかが分かり、今の時代は、ビジネスの難易度がますます高くなり、要求されるレベルが高くなっていることに驚かされるのです。
本年2月21日から始まった、半年間以上に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びの最終のまとめに取り組んでいきます。
◆パートナー
「自分は何が得意で何が不得意か」という問いこそ、ベンチャー・ビジネスが成功しそうになったとたんに、創業者たる起業家が直面し、徹底的に考えなければならない問題であるのですが、実は、そのはるか前から考えておくべきことであり、あるいは、ベンチャー・ビジネスを始める前に、すでに考えておくべきかもしれないことであり、第2次大戦の敗戦後という暗澹たる日本において、本田宗一郎が本田技研工業という小さなベンチャー・ビジネスを始めるにあたって行ったことで、彼は、パートナーとしてマネジメント、財務、マーケティング、販売、人事を引き受けてくれる者が現れるまでは、事業を始めず、彼自身は、エンジニアリングと製造以外は何もやらないことにしていて、この決心が、やがて本田技研を成功に導いたのです。
今から30~40年前の日本では、ホンダ技研工業は、燦然たる急成長の企業で、常にマネッジメントの話題になっていた会社であり、本田宗一郎と藤澤武夫は、優れた経営者と参謀であると、常に話題になっていて、普段、参謀役であった藤澤武夫が表舞台に立つことはなく、本田宗一郎と比べると、その存在は余り知られていないのですが、本田宗一郎も素晴らしい経営者でしたが、藤澤武夫も負けないくらい、素晴らしい人物であったことが、下記のウイキペデイアによれば、読み取れるのです。
藤澤武夫は、本田宗一郎の名参謀と言われ、本田は藤沢に実印と会社経営の全権を委ね、自らは技術者に徹し、2人の出会いは、ホンダ技研創業の1年後の1949年(昭和24年)8月、通産省(当時)技官の竹島弘の引き合わせで、本田宗一郎と出会い、ホンダの常務に就任し、東京営業所の開設を皮切りに、ホンダの財務並びに販売を一手に取り仕切るようになり、1952年(昭和27年)には専務、1964年(昭和39年)には副社長に就任し、派閥解消のための役員大部屋制や役員の子弟を入社させないといったシステムや1954年(昭和29年)に発表された本田の「マン島TTレース出場宣言」は藤沢によるものとされ、1973年(昭和48年)、社長の本田とともに副社長を退き取締役最高顧問となり、この引退は後継育成を見極めた藤沢が決断したもので、本田はその藤沢の決断を聞いた際に藤沢の意思をくみ取り、引退を決断したと言われているのです。
創業25周年を前にしての両者の現役引退は、当時最高の引退劇とも評され、1983年(昭和58年)には取締役からも退き、藤澤は、その後、東京六本木で骨董店「高会堂」を開き、趣味人として余生を過ごし、影に徹した事、また経営者でありながら風流人な一面を持つ点、その卓越した経営手腕によって経営者達のファンが多く、またMBAコース等での教材として度々取り上げられる人物であり、本田の影に隠れて、あまり広く知られていない藤沢ですが、稀代の名参謀と呼ばれ、ビジネススクールでは度々取り上げられているのですが、本人は「私は経営学など勉強した事がない、何冊か手にとって読んだことはあるが、結局、その逆をやれば良いんだと思った。」と語っていたのです。
「経営者とは、一歩先を照らし、二歩先を語り、三歩先を見つめるものだ。」との言葉も残していて、現役時代の藤沢は、本社とは別に、銀座の越後屋ビルの1室を借り、調度品にいたるまで全て黒で統一し、その部屋にこもって経営戦略を練ったと言い、また洒落者で知られ、着流し姿で出社することもしばしばあり、無類の舞台好きであり、歌舞伎はもとより、世界各国のオペラ座に着物姿で観劇し、また、常磐津が玄人並の腕前で「文王」の名も持っていて、隠居後の藤沢は「自分は引退した老骨」と語り、自分から社の経営に口を出す事はせず、政界財界人との交流もあまりなく、むしろ先代の中村勘三郎や作家の五木寛之、谷崎潤一郎などの文化芸術人との世間話を楽しむ風流人として過ごしたのですが、上記のように舞台や音楽鑑賞を趣味とした藤沢に対し、本田はゴルフなどの行動的な趣味を持っていた事から、不仲説が浮上したことがあったのですが、当人たちは、互いが当時住んでいた地名の「下落合」(本田)、「六本木」(藤沢)と呼びあうなど良好な関係で、「いつも手をつないで一緒にいるのを仲良しとは呼ばない、私達は離れていても、今この瞬間、相手が何を考え、どうするかが、手に取るように分かる。」とも語っているのです。
洒落た紳士的な雰囲気の一方で、仕事に対して厳しく部下の不手際を叱る際は容赦なく厳しい言葉を浴びせ、大きな目と半開きぎみの口から次々と大きな声で怒鳴る仕草から当時流行っていた怪獣映画になぞらえ「ゴジラ」とも陰で呼ばれ、「本田神話のシナリオを書いた男」「名参謀」などの異名を持ち、「経営はアートであり、演出の基本は意外性である」と語っていて、「ホンダの社長は、技術畑出身であるべき。」という言葉を残していて、この方針はホンダにおいて現在まで忠実に守られており、初代の本田から現職の八郷隆弘に至るまで、歴代の社長8名全員が技術畑出身であり、ホンダ技研は何度も危険な目に遭いながらも、以下のフォードのように、大きく落ち込むことがなかったのは、本田宗一郎が当初から、素晴らしい番頭役を見つけ、信頼し、マネッジメント・チームを育ててきたことが大きな要因になっているのです。
ここに、ヘンリー・フォードという、さらに昔の、さらに教えられる例があり、フォードは、1903年に事業を始めることを決心したとき、ちょうど45年後の本田と同じ決心をし、彼は、苦手なマネジメント、財務、マーケティング、販売、人事を引き受けてくれる適当なパートナーを見つけてから、ベンチャー・ビジネスを始め、フォードも、本田と同じように、自分がエンジニアリングと製造の人間であることを知っており、自らをこの2つの分野に限定し、彼が見つけたジェイムズ・カズンズは、フォードに劣らず会社の成功に貢献し、後にデトロイト市長とミシガン州選出上院議員を務め、もし、カナダ生まれでなければ、大統領にさえなれたかもしれないのです。
たとえば、1914年頃に導入した有名な1日5ドルの日給制、あるいはその先駆的な流通とアフターサービスなど、ヘンリー・フォードが考えたとされていることの多くは、カズンズが考えたものであって、むしろヘンリーが反対したものだったのですが、その後、ヘンリーは、あまりに有能なカズンズを疎んじ、1917年ついに追い出してしまったきっかけが、脱T型フォードと後継車開発というカズンズの主張であり、フォードは、まさにカズンズの辞任まで成長と繁栄を続け、カズンズの辞任の数か月後、かつては、自分が何に向いていないかを知っていたヘンリー・フォードが、トップ・マネジメントの機能をことごとく手中にしたとき、長い衰退の時代に入り、彼は、その後10年間にわたって文字どおりまったく売れなくなるまで、T型モデルにしがみつき、フォードの衰退はカズンズの辞任の30年後、恐ろしく若いヘンリー・フォード2世が事実上倒産した事業を引き継ぐまで続いたのです。
5第3者の助言
前記の例は、ベンチャー・ビジネスの創業者には、外部の独立した人たちからの客観的な助言が必要であることを教えていて、成長しつつあるベンチャー・ビジネスは取締役会を必要としないかもしれず、そもそも取締役会なるものの多くは、創業者が必要とする相談相手にはならないのですが、創業者は、基本的な意思決定について話し合い、耳を傾けるべき相談相手を必要とし、そのような人間は、社内ではめったに見つからないのです。
◆最大の要件
創業者の判断やその強みを問題にできる人物が必要であり、第3者の立場にいる者が、創業者たる起業家に対し、質問をし、その意思決定を評価し、そして何よりも、市場志向、財務見通し、トップ・マネジメント・チームの構築など、ベンチャー・ビジネスが生き残るための条件を満たすよう、絶えず迫っていく必要があり、これこそ、ベンチャー・ビジネスにおいて起業家的マネジメントを実現するための最大の要件であるのです。
このように起業家としてマネジメントし、その実行をはかるベンチャー・ビジネスが、やがて大企業として繁栄するのですが、あまりに多くのベンチャー・ビジネス、とくにハイテクのベンチャー・ビジネスが、本章で述べてきた原理をしりぞけ、「それらは経営管理者のすることであって、われわれは起業家である」と、馬鹿にしているのですが、そのような考えは、自由を意味しないで、無責任を意味し、態度と本質を混同していて、規律のないところに自由はなく、規律のない自由は放縦であって、やがて無秩序へと堕落するか、あるいは、時をおくことなく、独裁へと堕落するのです。
ベンチャー・ビジネスが見通しと規律を必要とするのは、起業家精神を維持強化するためであり、成功がもたらす要求に応えるためであり、何よりも、ベンチャー・ビジネスは責任を必要とし、まさに起業家がこの責任を果たせるようにすることが、起業家的マネジメントであり、財務、人事、マーケティングなど、ベンチャー・ビジネスのマネジメントについて述べるべきことはまだ多いのですが、それら具体的な問題については、すでに多くの書物が論じているのです。(巻末「参考文献」参照)。
本章では、企業であれ、社会的機関であれ、ハイテク、ローテク、ノーテクのいずれであれ、さらには1人の人間あるいは何人かのグループによるものであれ、また、中小企業のままでいようとするものであれ、第2のIBMたらんとするものであれ、ベンチャー・ビジネスなるものが、生き残り、成功していくうえで、決定的に重要な意味をもつ、いくつかのかなり基本的な原理を明らかにしたつもりであるのです。
今朝もいつものように散歩していると、近くに西公園があり、海辺の近くで、福岡ドームがすぐ近くでした。
急に寒くなり、今日から冬景色に変わりました。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。