本日のテーマは「人手不足時代の自家製麺代行業」です。
昨日土曜日は讃匠の創業記念祭で、本社で近隣のお客さまを招いてのイベントを行ないましたが、3月下旬とは言え、まだ寒く、3階の食堂では、手打ちうどん教室を開催し、子ども連れのお客さまが手打ちうどんを親子で楽しんだり、外のテントでは、屋台が出たり、メニューコンテストを行なっていたのです。
大和は昨年の10月で創業40周年を迎え、讃匠は今年で創業32周年を迎えますが、振り返ると夢のような40年と32年で、どちらのビジネスとも決して平たんな道を来たのではなく、振り返ってみると、まさに失敗の連続ですが、よくもここまで来ることが出来たものだと思います。
大和の場合は、製麺機ビジネスで一筋で、15年前から麺学校を開校し、麺に関するビジネスであり、讃匠も半生うどん、生ラーメン、生蕎麦、生うどんと両社とも麺に関するビジネス一筋で来ているのです。
大和の場合は約20年前から飲食店向けの小型製麺機に特化し、讃匠の場合は、麺の小売と卸に特化していますが、両社とも同じようなジャンルでビジネスをやっていて、今までは大和のうどん店のユーザーさまでお土産うどんの販売を讃匠がお手伝いする程度で、相乗効果をなかなか発揮することが出来なかったのです。
ところが、最近、自家製麺代行業を始めたために、大和の製麺機のお客さまに関しても、讃匠の麺ビジネスの相乗効果が発揮されるようになってきたのです。
例えば、顕著な事例では、大和の蕎麦の製麺機を契約した或る道の駅が、最初はスペースの確保とか、人員の確保が出来ていなかったので、数か月間は讃匠から生蕎麦を供給し、蕎麦店としてのオペレーションが馴れた後、製麺機を導入し、自家製麺を始めたのです。
或いは、大和のユーザーさまで、あるラーメン店がイベントの間だけ、麺が大量に必要になり、その間だけ麺の供給を依頼されると、讃匠の製麺機は大和製の製麺機であり、お客さまの麺のレシピは大和が作り上げているので、簡単にお客さまの困っている間だけ、必要な数量の麺の供給が出来るのです。
或いは、大和の製麺機を使っていて、高齢になり、日々の麺作りが体力的にきつくなってきたので、部分的に讃匠で麺作りを手伝うことを始めたのです。
すると、最初はすべての麺を讃匠で作っていたのですが、体調も良くなり、体力的に自信を取り戻して来て、徐々に自家製麺の比率を高め、現在では忙しい日の不足分だけ讃匠から供給しているのです。
この場合も、讃匠の製麺機は大和製であるので、麺質もほぼ同じで、同じような麺が供給できるので、お客さまにとっては安心感があり、体調の悪い時だけ、或いは、忙しく間に合わない時だけ気軽に麺の供給を依頼出来るので、気持ちが非常に楽になり、安心して日々の営業が出来るのです。
今まで、製麺機だけを販売していると、このようなお客さまに対するお手伝いを思いつかないのですが、お客さまも徐々に高齢化し、それでも元気なうちは営業を継続したいとの希望のお客さまは多いので、このようなお手伝いをすれば、お客さまは安心して、いつまででも体力の続く限り、営業が出来るのです。
このような高齢のお客さまだけでなく、若いお客さまでも将来的には自家製麺をしたいが、直ぐに出来ないお客さまが、取り敢えず、自家製麺代行業で麺を購入し、営業に慣れて自信が出来てから、自家製麺に切り替えるお客さまが増えているのです。
素人から麺ビジネスを始めて、まだ麺ビジネスに自信を持てないときは、まず自家製麺代行業で、自家製麺と同じ麺を仕入れ、慣れてから自家製麺に切り替えると、安心して自家製麺に取り組むことが出来、仕入麺から自家製麺に切り替えるときに発生するリスクを抑えることが出来るのです。
或いは、自家製麺と通常の仕入麺との違いを知りたい人は、自家製麺代行業の麺を仕入れて使ってみて比較すると、直ぐにお客さまの反応が現われるので、リスクなく、自家製麺に切り替えることが出来るのです。
自家製麺に切り替えようと思っている多くのお客さまにとって、切替えた時のメリットとデメリットをリスクなく、実感することが出来るのです。
自家製麺に切り替えることによって、さまざまなメリットがあり、その最も大きなメリットは麺質であり、レシピが外に出ず、自分だけの防腐剤を使っていない安全な麺を作ることが出来ることですが、今までは事前に試すことが出来なかったのですが、自家製麺代行業であれば、必要な期間だけ幾らでも実店舗を使って試験を行なうことが出来、お客さまの反応を見ることが出来るのです。
今までのラーメン業界はどちらかといえば、スープのレベルアップには大きなウエイトが置かれていて、麺質には重点が置かれていなかったのですが、これからは、スープだけでなく、麺のウエイトも高まっているのです。
当社は、麺学校もやっているので、麺だけでなく、スープの研究を深く行なっているので、麺とスープのバランスには非常に気を付けているのです。
日本では、総人口がこれからの5年間で、240万人(総人口の2%)減少し、ますます競争が厳しくなり、人手も減少していくので、そのような時代の変化を先取りした戦略は欠かせないのです。
本日も朝のTVの政治情報では、テロの発生したベルギーでは移民政策を取っていたために、イスラム系の国民の比率が人口の23~4%に達し、IS国のメンバーがイスラム系国民の中に潜んでいるので、摘発が難しくなっているのです。
日本は現在のところ、移民政策を取っていないので、この先、人口は減少の一途で、国内のビジネスでは、そのことを想定したビジネス戦略を立てなければいけないのです。
丁度1年前の昨年2月21日から始まった、半年間以上に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びの最終のまとめに取り組んでいきます。
「機会とは要求である」
気づかない成功(予期せぬ成功)がもたらすイノベーションの機会を利用するためには、分析が必要であり、予期せぬ成功は、分析のための兆候ですが、何の兆候かと言えば、気付かない成功(予期せぬ成功)が、単にマネッジメントの視野、知識、理解の欠如を意味しているに過ぎない場合もあり、急に売上が上がるのは、大きな市場があることを示している兆候であるのに、それを理解するには、マネッジメントのレベルの高さが必要なのです。
例えば、医薬品メーカーの多くが、動物用医薬品市場での成功を拒否したという事実は、世界の畜産市場の規模と、重要性に対するマネッジメントの認識の欠如、第2次世界大戦後における、動物性蛋白質の需要の伸びに対する読みの甘さ、農民の知識や能力の変化に対する、理解の欠如を意味したに過ぎず、メーシーにおける家電の予期せぬ成功は、ブルーミング・デールが理解したように、消費者の行動、期待、価値観が基本的に変化したことを意味し、第2次世界大戦までは、百貨店の顧客は、特定の社会的経済的階層、特定の「所得階層」の人たちでしたが、戦後は、特定の「生活様式=ライフスタイル」の人たちが百貨店の顧客となり、ブルーミング・デールは、アメリカの百貨店、特に東部の百貨店のなかで、最初にこの変化を認識し、利用し、新しい大店舗小売店を生み出すことに成功したのです。
一般企業や大学の研究室における試験用機器の予期せぬ成功は、100年近くにわたって存在していた科学機器の使用者間における目的、要求、期待の境界線が、急速に消滅したことを意味し、30年或いは40年という長い期間、自らを病院用機器の設計、生産、販売に携わる者と規定し、しかもそのように規定することによって成功を収めてきたものが、今や自らを試験用機器一般のメーカーとして規定し直し、かっての市場より大きい市場を相手として、製品の設計、生産、販売、サービスのための能力を発展させなければならなくなっていたのですが、気付いたときには、市場の大きな部分は永久に失われていたのです。
この様に気づかない成功(予期せぬ成功)は、イノベーションの機会であるだけではなく、それはまさに、イノベーションに対する要求であり、気づかない(予期せぬ成功)は、自らの事業の定義についていかなる変更が必要か、自らの技術と市場の定義について、いかなる変更が必要かを自らに問うことを強いるので、それらの問いに答えたとき、初めて気づかない(予期せぬ成功)が、最もリスクが小さく、しかも最も成果が、大きいイノベーションの機会となるのです。
企業規模が大きくなるにつれて、ビジネスは複雑になり、難しくなってくるので、企業のトップのあり方が問われ、われわれのようなビジネスは、企業のトップの考え方ですべてが決まると言っても言い過ぎでないほど、トップの日々のあり方が問われていて、トップを支える強力なマネッジメント・チームの存在が、その企業の明日を左右し、当社の場合も、強力なマネッジメント・チームの半数は女性たちで、女性たちはたいへんシビアにものごとを判断し、将来の危機の可能性に関して、たいへん敏感で、常にアンテナを高く張っているので、早い時期から、シビアに判断出来る女性たちをマネッジメント・チームに加えることは欠かせないのです。
また、このテーマである気づかない成功、予期せぬ成功、予期せぬ良い兆候には、用心深さが、尋常ではないくらい、用心深くしていても構わず、そんなことはあり得ないだろうと思うことが命取りになるので、トップ・マネッジメントは気付かない成功に関しては、用心深さにおいて、呆れるくらいの用心深さがあっても構わず、当社もこの件に関しては、改めて社内基準(自己批判力)を作らねばと思っている次第です。
「デユポンとIBMの事例」
世界最大級の2つの企業、即ち世界最大の化学品メーカーであるデユポンと、コンピュータ産業の巨人IBMの2社は、予期せぬ成功をイノベーションの機会として利用し、その後の発展の礎とし、デユポンは130年間、自らを火薬メーカーと規定していたのですが、1920年代の初頭、初めて他の分野に進出すべく、組織的な開発研究に取り組むことにし、その1つに、第1次世界大戦中に、ドイツが突破口を開いたポリマーの開発があったのですが、デユポンは何年もの間、一向に成果を上げることが出来なかったのですが、1928年のある週末、研究助手の1人がバーナーの火を消し忘れたところ、翌週月曜日の朝、科学者ウオレス・H・カロザースが、繊維状に凝結したポリマーを見つけた10年後、デユポンはナイロンの製造方法を発表したのです。
この話のポイントは、ドイツの大手化学品メーカーでも、これと同じ出来事がすでに何度も起こっていたということにあり、もちろん彼らもポリマーを求めていたので、彼らはデユポンより10年も早く、ポリマーとともに化学産業界のトップの地位を手にすることが出来たはずでしたが、開発研究を組織的に進めていなかった彼らは、たまたま繊維状に凝結したものを洗い流し、初めから実験をやり直すことを繰り返していたのです。
IBMの例もまた、予期せぬことから何が得られるか教えてくれ、IBMの今日があるのは、まさに予期せぬ成功を、1度ならず2度までも利用したためであり、1930年代の初め、IBMは倒産寸前で、銀行用の事務機の開発に、手持ち資金のすべてをつぎ込んでいたというのに、大恐慌の最中にあった銀行は新しい事務機を買ってくれなかったので、当時、レイオフを行なわないことを、すでに社是としていたIBMは、事務機を倉庫に積み上げるだけのために、次から次へと生産を続け、そのようなどん底にあった頃、ある晩餐会でIBMの創立者トーマス・ワトソン・ジュニアの隣に1人の女性が座り、彼の名前を知ってその女性は、「IBMのワトソンさんですか。どうしてお宅のセールスマンは、私のところに売り込みに来ないのですか。」と聞いたというのです。
彼女がNYの公立図書館の館長であることを知ったのですが、何を求めているのか分からなかったし、そもそも彼は図書館になど行ったことがなかったので、翌日、図書館の開館と同時に彼女を訪問すると、当時、図書館には政府の予算がかなりついていて、2時間後、彼は社員に翌月の給料を払えるだけの注文を貰い、この話が出るたびに、彼は笑いながら、「その時思いつきで、新しい方針を1つ作ってしまった。現金先払いだ。」と言っていたのです。
その15年後、IBMはコンピュータを作り、初期のアメリカのコンピュータがみなそうであったように、IBMのコンピュータも科学計算用であり、そもそもIBMがコンピュータを作った理由のひとつに、ワトソンの天文学好きがあったので、マジソン・アベニューのショー・ウインドウーで公開し、大勢の見物客を集めたときも、月の満ち欠けを計算するようにプログラムしていましたのですが、すぐに、この「科学の偉業」たるコンピュータを、企業が給与計算など世俗的な仕事に使い始めたのです。
当時最も進んだ技術を持ち、しかも企業にうってつけのコンピュータを開発していたユニバックは、その偉業が世俗的な企業によって、いわば汚されることを嫌ったのですが、これに対し、IBMは企業のニーズに驚かされつつも直ちに応じ、競争相手のユニバックが開発した設計を模倣してまで、会計事務に向いていなかったコンピュータを設計し直し、IBMは4年足らずで、コンピュータ市場でトップの地位を得たのですが、技術的にIBMがユニバックに追いついたのは、さらにその10年後で、IBMは顧客たる企業のニーズに応え、プログラマーの訓練を有料で行なうなど、商業ベースで企業のニーズに応じたのです。
以上の事例を見ても、IBMは初期のころから、顧客中心主義の非常にフレキシブルな企業であったことが分かり、お客さまのニーズを満たすために、先手先手とさまざまな対策を立て、実行したので、まさに技術力を持った、マーケテイング先行企業であることが分かるのです。
以上の例と同じく、ナショナルやパナソニックのブランドで知られる、日本最大の家電メーカー、松下電器産業も、予期せぬ成功を積極的に利用して発展し、1950年代の初め頃は、松下と言えどもまだ小さく、そして有名でもなく、東芝や日立などの名門の巨人と比べて見劣りし、松下も当時、他の家電メーカーと同じく、「テレビが日本で普及するには時間がかかる」と見ていたのです。
1954年か55年のことでしたが、日本のある家電メーカーの会長は、NYのある会合で、「日本は貧しく、テレビのような高いものは買えない」と講演していたほどでしたが、松下電機は、農家はテレビを買えないほど、自分たちが貧しいとは思っていないという事実を受け入れ、事実、農家はテレビが、外の世界と接触させてくれることを知ったので、経済的には大変だったのですが、彼らはテレビを買ったのです。
当時、松下より優れたテレビを開発していた東芝や日立は、東京の銀座や大都市の百貨店で売っていて、地方の農民に必要ないと思っていたのですが、これに対し松下は、農家を一軒一軒訪ねてテレビを売り、農家に対し、木綿の作業ズボンやエプロンより高い物を、エプロンの様に売ろうとしたのは、松下が初めてだったのです。
もちろん、売れない製品に対し予期せぬ関心を示してくれる女性が、たまたま晩餐会の隣の席に座ってくれるような僥倖をいつまでも待っているわけにはいかないので、多くの成功した企業とそうでない企業の明暗を分けたのは、以下のことであるのです。
1.顧客中心で、組織的に、体系的に顧客のニーズに、常に焦点を当てている
2.可能性にかけ、不可能と思わないで、チャレンジを続けている
3.むやみに実行するのではなく、必ず組織的で体系的な研究開発が欠かせない
4.IBMの事例も松下電器の事例も、技術的なイノベーションよりも、むしろ販売上でのイノベーションの方が、企業の成果に結びつきやすいことを示していて、IBMは給与計算等、企業のニーズにフォーカスし、プログラマーの訓練を有料で行なうなど、販売上のイノベーションを起こし、松下は価格の高いテレビを都会で売るのではなく、農村へ販売した
われわれは、新しい取組み、即ち、イノベーションを起こしたとしても、いつの間にか、お客さまを含む外部環境が変わり、起こしたはずのイノベーションがいつしか、古くなってしまうので、いつまでも通用する戦略はなく、常に外部の変化に合わせて、イノベーションを起こし続け、戦略を変更し続けなければいけないのです。
テレビのように技術革新の早い世界は、お客さまの変化も非常に激しいので、企業戦略も非常に複雑であり、長い将来を見据えて戦略が重要になることは、昨今の日本のお家芸であったテレビ事業が衰退してしまったのを見ても、分かり、IKEAのような家具の世界で、世界のお客さまのライフ・スタイルをリードする企業になったので、家具の世界では1人勝ちのような状態で、これもIKEAの戦略とコンセプトの良さであり、マネッジメントは何を大切にしなければいけないかを教えてくれている貴重な事例です。
世界の多くライバルがIKEAを真似、挑戦したのですが、挑戦に成功した企業はなく、ブルー・オーシャンで、ライバルが真似できないような規模になれば、最強のポジションを築くことが出来る素晴らしい事例です。
お客さまにフォーカスし、お客さまを研究し、お客さまの変化に注目し、お客さまのニーズに合せ続けることはこれからの企業には欠かせないので、これからは、企業は社内に「お客さま研究室」を持ち、お客さまの研究を深く、体系的に行ない続けることが欠かせず、当社が創業当初より、「麺研究室」を持ったように、企業規模の大小にかかわらず、「お客さま研究室」は、これからの生き残る企業には欠かせず、「お客さま研究室」の初代リーダーは、当然、トップが兼任すべきなのです。
画像は、昨日の讃匠創業祭の様子で、さまざまなイベントの様子です。
イベントでは、私が自分の盛り付けのメニューを披露する場面が少しだけあり、いつもうどん学校で作っているメニューを作ってみました。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。