明日7月12日(日)から7月14日(火)までの3日間、ドリーム・スタジオ東京にて、「麺専門店繁盛支援イベント」を開催し、さまざまなセミナーがあり、13日は、私も参加します。
(https://www.yamatomfg.com/company/dream-studio/dream-studio-tokyo/)
7月20日(月)、21日(火)の2日間、シンガポールで「1day ramen school」と「1day udon school」を開催し、2日間とも、私も参加します。
(https://www.yamatomfg.com/company/dream-studio/dream-studio-singapore)
本日のテーマは「自分の頭で考え抜く」です。
昨日は朝から、日経新聞社の取材があり、外食の海外進出を支える製麺機メーカーとしての取り組みを中心に話の展開があり、その後、ジェトロの方がたのご来社があり、昼食は日経新聞社の記者とジェトロの方がたと一緒に、久しぶりに本社で、健康に良い、美味しい食事を取りました。
海外でのいろんな国々、都市の駐在を経験されているジェトロの方がたにも、当社の食堂の健康的で美味しい食事を堪能して戴き、たいへんなお褒めの言葉を戴きました。
一昨日の企業価値協会の発表会の席でも、当社の本社での給食の体験を多くの参加者にお勧めしましたが、体験希望者がいましたし、このフェイスブックの読者の方でも、興味がある方は是非、ご参加戴下れば、大歓迎いたします。
午後から、ラーメン学校の最終である生徒さんのスープのチェック、盛付のチェックを行ない、その様子を日経新聞社の記者に取材して戴いたのですが、今回のラーメン学校には、オーストリア、カナダからの海外からの生徒さんと、日本からマレーシアで開店する生徒さんもいて、今回の日経新聞社の取材内容にピッタリの内容のラーメン学校だったのです。
9名の生徒さんのスープのチェックを次々と行なっていくと、生徒さんの味に対する理解度の足りなさを気づきました。
今回の生徒さんのほとんどが、最終的な味の微調整が出来ていなかったので、少しづつ微調整を加えていくと、大きく味の改善がされる生徒さんがほとんどであったのです。
事前に生徒さんたちには、どのスープベースには、どのような元ダレの組合せが最適の組合せであるかの、味の方程式のようなシートを渡してあるのですが、その方程式を理解していない生徒さんが多かったのです。
要するに「守破離」が出来ておらず、師匠のコピーを完全に終えた後で、自分の持ち味を出せば良いのに、師匠の完全なコピーが出来ていない段階で、自分の味を勝手に創り出しているので、味のバランスが整っていないのです。
ラーメンスープは、バランスが創り出す微妙な技であり、少しでも何かを間違えると、バランスが崩れて、味がまとまらないのです。
同時に、そのバランスが崩れていることを理解出来ないと、美味しいスープを作ることが出来ないのであり、自分で美味しい味の理解を出来ることが大切であるのです。
私は、ラーメン学校の校長として、生徒さんの味をチェックでき、味合わせを自分で構築出来るようになったのは、経験の数であり、多くの料理の味を味わい、自分で味作りを行なってきたためです。
40年前に起業したころには、ラーメン学校の校長であることとか、味を教えたり、盛付を押しえるようになるとは、夢にも思っていなかったのですが、現実にこうして教えているから不思議であり、なぜ、自分にそのような能力が身についたのかと言えば、多分、責任から発生していることではないかと思います。
昨日、ジェトロの方がたが来られて一緒に食事をしているときに、さまざまな質問があり、私がラーメン学校に取り組んだり、これだけ海外に行ったりしているのを見て、こんなに多くのことをしていることに不思議がっていたのですが、会社の中の仕事のうち、多くのことを他の人たちがやってくれているから、或いは、多くの仕事を他の人たちに任せているから出来るのです。
例えば、普通は中小企業のトップの仕事として、銀行折衝等もあるのですが、銀行折衝はすべて当社の経営企画の責任者が代行してくれているので、私がやらなければいけないことはほとんどないのです。
製造に関しても、工場長の橋本さんがすべて引き受けてくれているので、何もやることはなく、メンテナンスも同様であり、私が最近力を入れているのは、会社全体のイノベーションであり、進化であり、海外進出、開発部門のイノベーション、麺学校の進化等々、どうしても私がやらなければいけない分野だけであるのです。
当然、そのような重点課題の部門も、実際に私が関与しながら、さまざまな取り組みを通じて、大切な考え方を伝え、次の世代を育てているのです。
従って、次の世代を正しく育てるためには、ものごとを理解するための考え方を押しえるようにしているのです。
昨日もあったのですが、開発部門では自分がやっている仕事の本質は何かを、理解しないで仕事をしてしまうと、言われたことを言われるままに行なっただけになり、自分には何も残らず、次に新しい問題が起きたときに、応用も出来ないのです。
従って、なぜ、そのようにするのかをシッカリ理解して仕事をすることが大切であり、これはすべての仕事に通じ、麺学校の生徒さんたちにも一番理解して貰わなければいけない課題なのです。
本日から、本社での経営講義が始まりますが、生徒さんたちに理解して欲しいのは、なぜそうなるか、なぜそうしなければいけないか、という点に尽きるのです。
そうしなければいけない理由を理解せずに、単に暗記するだけでは、日本の学校教育のようなことになってしまい、自分の頭で考え抜く力がつかないのです。
現在の日本の大きな課題は、自分の頭で考え抜くことをしない人たちが非常に増えて来たことであり、その正反対はドラッカーの存在なのです。
本年2月21日から始まった、91日間に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びを終え、さらに学びを深めるために、5月26日より7月5日まで41日間の復習を進めてきましたが、さらに理解度を増すため、再再度、チャレンジし、自分自身を大きく変えるのに役立てていきます。
「資源の創造」
人間が利用の方法を見つけ、経済的な価値を与えない限り、何ものも資源とはなり得ず、例えば、植物は雑草にすぎず、鉱物は岩にすぎず、地表に沁み出る原油やアルミの原料であるボーキサイトが資源となったのは、1世紀少々前のことであり、それまでは、単に知力を損なう厄介物にすぎず、ペニシリウムなるカビも単なる厄介物であり、資源ではなく、細菌学者たちは、ペニシリウムから細菌の培養液を守ることに苦労をしていたのですが、1920年代になり、ロンドンの医師アレキサンダー・フレミングが、この厄介物こそ細菌学者が求めているものであることに気づき、そのとき、初めてそれは、ペニシリンをもたらす価値ある資源となったのです。
社会や経済の領域でも同じことが起こり、経済においては、購買力に勝る資源はなく、購買力もまた、起業家のイノベーションによって創造され、19世紀の初め、アメリカの農民には事実上購買力がなかったので、数十種類もの収穫機が出ていたが、買えなかったのですが、そのとき収穫機の発明者の1人、サイラス・マコーミックが割賦販売を考え出し、農民は、過去の蓄えからではなく、未来の稼ぎから収穫機を購入できるようになり、突然、農機具購入のための購買力が生まれたのです。
「富の創出能力の増大」
既存の資源から得られる富の創出能力を増大させるのも、すべてイノベーションであり、トラックの荷台を荷物ごと切り離して貨物船に載せるという考え方は、新技術とはかかわりがなかったのですが、コンテナー船というイノベーションは、技術の進歩からではなく、貨物船を単なる船としてではなく、運搬用具として見ることから生まれ、重要なことは、港での貨物船の滞留時間を短くすることであり、この平凡なイノベーションが貨物船の生産性を4倍も高め、運搬業の危機を救い、経済史上最高の成長ともいうべき40年間における世界貿易の伸びをもたらせたのです。
初期教育の普及をもたらせたのも、教育に対する理解、教師の育成、教育学の進歩ではなく、最もイノベーションらしからぬイノベーションは、17世紀半ばのチェコの偉大な教育改革者、ヨハン・アモス・コメニウスによる教科書の発明であり、教科書がなければ、いかに優れた教師であっても、1度に1人か2人の生徒しか教えられないのですが、教科書があれば、平凡な教師でも1度に30人から35人の生徒を教えることが出来るのです。
当社の麺學校でも、教科書が完成してから、授業内容のレベルが飛躍的に向上し、最初は教科書がなく、プリントのようなもので授業を行なっていたのですが、授業内容が体系化されるに従い、教科書が完成し、授業を行なうようになると、ノウハウの構築に加速度がつき、次つぎと新しいノウハウが生まれ、一度作成した教科書を一定の間隔で、次つぎとリニューアルしなければいけなくなってきたので、ある期間が経てば、新しい内容になり、常に改訂版の出版が必要になり、教科書のお蔭で授業内容の進化が速まり、教科書を事前に生徒が読んでくるので、生徒の理解度も高まったのですが、教科書を作るというのは、とてもイノベーションには思えないようなことですが、結果を大きく変え、授業の成果に大きな、良い影響を及ぼし、新規開業者の多くが失敗するのは、マネッジメントの理解不足であるので、マネッジメントの教科書はたいへん意味があるのです。
次に、多くの生徒さんたちにとって難しいテーマは盛り付けであり、近々完成する盛り付けの教科書も生徒さんたちにとっては、貴重な財産になり、既に完成している教科書では、デジタル・クッキングについて詳述しているので、無化調でのデジタル・クッキングの理解にはたいへん役立っており、この様にしてみると、われわれが普段イノベーションと思わずに実行していることも立派なイノベーションになっていて、われわれの身の回りにある、普段何気なく接している、何がイノベーションであり、その結果、大きく成果を挙げている内容は何かを理解することが、次のイノベーションを創り出すのに大きく役立ち、われわれ日本人は、イノベーションとは技術革新であり、イノベーションを起こすのは、特殊な人のように思っていますが、イノベーションは不便なところ、不満足から生まれているのです。
コンテナ船の事例では、過去、貨物船が港で荷卸しのために長時間停泊せざるを得ない状態になり、ある貨物船の荷卸しの最中には、次の荷卸しを待っている貨物船が次々と列になって待っている状態であり、これらの貨物船は時間を無駄にしているだけであり、途轍もなく、貴重な資源を浪費していて、お客さまが抱えている不便、不満を取り除くこと、社内外にある不便、不満を解決することがイノベーションに繋がり、その効果は大きく、上記の収穫機を作っていたサイラス・マコーミックは、割賦販売制度を収穫機の販売に取り入れ、ビジネスに大きな成果をもたらせ、いつの時代でも、お客さまが買い易くすることは、需要を創出するためには、欠かせないのです。
「社会的イノベーション」
イノベーションは技術に限ったものではなく、モノである必要さえなく、それどころか、社会に与える影響力において、新聞や保険を初めとする社会的イノベーションに仇敵するイノベーションはなく、割賦販売は、まさに経済そのものを供給主導型から需要主導型へと変質させ、1948年のチェコスロバキアや1959年のキューバのように、共産主義が権力を得て、最初に禁止する経済活動が、割賦販売である理由もここにあり、同様なお金に関するイノベーションとしては、今では当たり前で、誰でも使っているキャッシュ・カード、プリペイド・カード(スイカ等)、お財布携帯、電子マネー等々、数えきれない種類の新しい貨幣が出来、使い始めのころは少し違和感があったのですが、今ではまったく当たり前になり、誰でも普通に使っていて、政府が行なっている補助金政策も、税収確保のための一種のイノベーションであり、今ではごくごく当たり前になっている、給与制度もイノベーションであり、これからもイノベーションを起こし続けていかなければいけない分野で、給与も、その時代、時代のニーズに合った給与制度でなければいけないのです。
18世紀啓蒙主義による社会的イノベーションの1つである近代病院は、いかなる医学上の進歩よりも、医療に対し大きな影響を与え、明治維新までの日本には、病院はなく、病気になれば、町の医者に診て貰い、薬を買って飲むしか方法がなく、明治以降の日本の医療において、病院が果たした役割は限りなく大きく、昔は人生の終わりを迎えるのは、自宅であったのが、現在ではほとんどの人が病院で亡くなり、多様な知識や技術を有する人たちを、共に働かせるための知識としてのマネッジメントもまた、今世紀最大のイノベーションであり、まったく新しい社会、いかなる政治理論や社会理論も準備されていない組織社会を生み出し、明治以前の日本では、会社で誰かと一緒に働くという概念がなく、明治以降、会社組織が出来、人びとの働き方が一変し、経済史によれば、ドイツではじめての蒸気機関車を作ったのはオーガスト・ボルジヒですが、彼は、はるかに重大なイノベーションとして、ギルドや教師、或いは官僚の抵抗を押し切り、今日、ドイツ産業の基盤となっているドイツ特有の工場システムを作り、彼は、広範な裁量権のもとに職場を動かす、敬意を払われる存在としてのマイスター制度や、現場訓練と学校教育を結合させた徒弟制度を作り、今でもドイツは世界屈指のモノ作り大国になっているのは、こうした先輩たちが基礎を作った努力のお蔭であり、今でもその遺産が脈々と引き継がれているのです。
マキャベリの「君主論」(1513)による近代的な政府の概念と、その約60年後の後継者ジャン・ボーダンによる近代国家の概念は、いかなる技術的イノベーションよりも、近代社会に永続的な影響をもたらし、社会的イノベーションとその重要性について最も興味ある例は、近代日本であり、開国以来、日本は、1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、或いは真珠湾の勝利、さらには1970年代と80年代における経済大国化、世界市場における最強の輸出者としての台頭にも関わらず、欧米からは常に低く評価されてきたのですが、その主たる理由、恐らく唯一の理由は、イノベーションとはモノに関するものであり、科学や技術に関するものであるという一般の通念にあり、実際、日本は、イノベーションを行なう国ではなく、模倣する国だと見られてきましたが、これは、科学や技術の分野で、日本が際立ったイノベーションを行なっていないためだったのですが、日本の成功はイノベーションによっていて、日本が開国に踏み切ったのは、征服され、植民地化され、西洋化された、かってのインドや、19世紀の中国の二の舞をしたくなかったからです。
日本は、柔道の精神により、欧米の道具を使って欧米の侵略を食い止め、日本であり続けることを目指し、日本にとっては、社会的イノベーションの方が蒸気機関車や電報よりもはるかに重要であり、しかも、学校や大学、官僚機構、銀行、労使関係のような社会的機関の発展、すなわち社会的イノベーションの方が、蒸気機関車や電報の発明よりもはるかに難しく、ロンドンからリバプールへ列車を引く蒸気機関車は、いかなる応用も修正もなしに、そのまま東京から大阪へ列車を引くことが出来るのですが、社会的機関は、日本的であると同時に、近代的でなければならず、日本人が動かすものでありながら、同時に西洋的かつ技術的な経済に適合するものでなければならないのです。
技術は安いコストで、しかも文化的なリスクを冒すことなく導入できるのですが、社会的機関が発展していくためには、文化的な根を持たなければならないので、日本はおよそ100年前、その資源を社会的イノベーションに集中することとし、技術的イノベーションは模倣し、輸入し、応用するという決断を下し、見事に成功し、この日本の方針は今日でも正しいと言え、ときには冷やかしの種とされている創造的模倣なるものこそ、きわめて成功の確率の高い立派な起業家戦略だからであり、今日、仮に日本が他の国の技術を模倣し、輸入し、応用する以上のことを行なうべく、自ら純粋に技術的イノベーションを行なわなければならなくなっているとしても、日本を過小評価してはならず、そもそも開発研究そのものが、ごく最近の社会的イノベーションであり、日本はこれまで行ってきたように、そのようなイノベーションに長じていて、しかも日本は、起業家としての戦略にも長じているのです。
もともと、日本の食文化ではなかった、うどん蕎麦は勿論、ラーメンまでも、日本の食文化として、世界に広めていることが出来ていることこそ、日本の得意技の創造的模倣により起業家戦略であるのです。
まさにイノベーションとは、技術というよりも、経済や社会に関わる用語であり、イノベーションは、J・B・セイが起業家精神を資源の生産力を変えることと規定したのと同じように定義することが出来、或いは、近代経済学者がしばしば言うように、供給に関わる概念よりも需要に関わる概念、「消費者が資源から得られる価値や満足を変えること」と定義することが出来、ドラッカーは日本の明治維新以降の社会的イノベーションについて、たいへん高い評価を下していて、このような見方は、ほとんどの人が行なっていないのですが、ドラッカーは、一般的な日本の理解とは異なる理解を示しているのです。
明治維新以降の日本について、考察してみると、栄光と挫折の繰り返しであることがよく分かり、日本のイノベーションも近代国家になる前半、特に明治維新から大正時代にかけては、非常に成功しているのですが、第二次世界大戦で大敗し、第二次世界大戦後の復興期においては、大成功し、成功の後、ずっと沈滞が続き、日本のイノベーションの歴史を振り返ると、明治の初期の弱小国であった頃は、思い切りリスクを取り、その後、日本が欧米の強国に肩を並べるようになってから、日本は方向を変え、戦争に突入し、第2次世界大戦後の焦土で何もない日本は、ゼロからの再スタートになり、思い切り、リスクを取らなければいけない状態になり、その後、経済は急成長し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われるようになったころから、日本は再びおかしくなり、経済的(国民一人当たりのGDPの伸び)にはこの25年間ずっと停滞しているので、現在の日本において、一番イノベーションが必要な部分は社会的イノベーションであることがよく分かり、そのリーダー・シップを取らなければならないのは、政府であり、われわれ起業家であるのです。
昨日は珍しい光景に出合いました。
本社の2階で、工場長の橋本さんが自分でラーメンを作っていたのです。
私は彼が自分で、麺作りをしていたのを見たのは初めてで、当社では誰でも麺作りが出来るようになっているのは当たり前であったのですが、見たのは初めてで、思わず、写真を撮ってしまったのです。