先ずは、お知らせが2つで、1つ目は、明日11月3日(火)~5日(木)の3日間、ドリームスタジオ名古屋で、創業40周年記念イベントがあり、各種セミナー、製麺講習等が行なわれ、私も2日目から参加します。
(https://www.yamatomfg.com/company/dream-studio/dream-studio-nagoya/)
2つ目は、来週11月10日(火)~12日(木)の3日間、ドリームスタジオ東京で、創業40周年記念イベントがあり、各種セミナー、製麺講習等が行なわれ、今であれば、3日間とも余裕があり、私も2日目から参加します。
(https://www.yamatomfg.com/company/dream-studio/dream-studio-tokyo/)
本日のテーマは「夕食は6時までに済ませる」です。
今朝の坂出の外気温は8度Cでしたが、寒さをぜんぜん感じなく、丁度良い位で、このまま行けば、真冬の0度C付近でも寒さを感じなさそうで、日々の1万歩のウオーキングが基礎体温を上げ、免疫力を上げている様子がよく分かります。
先週、学校のスタッフで2週間もずっと、マスクを付けたままで、毎日大きな咳を続けて出勤しているスタッフがいたのです。
本人は、咳だから大したことはないと言いながら出勤し、風邪くらいと思っていたのですが、余りにも治らないので、会社を休むように命じたのです。
もし、サービス業のレストラン業とか麺専門店のような場合は、風邪を引くと、絶対に出勤停止が当たり前で、もし、お客さまに移したり、スタッフに移すとたいへんなことになるので、風邪を引いたら、絶対に出勤停止にしなければいけないのです。
特に最近は、ノロウイルス等の厄介な病気も発生しているので、風邪程度と思ってはいけないのです。
最も肝心なことは普段の健康管理で、風邪などを引かないようにすることであり、もし、風邪を引くと、自分だけでなく、周りに迷惑をかけることを理解しなければいけないのです。
健康管理が、ビジネスマンの基本的な仕事の一部であることを自覚し、実行しているのは、プロのビジネスマンとして、当たり前のことなのです。
社内を見ても、いつもマスクをしている人がいたり、学校の経営講義でも、講義中ずっとマスクを離さない生徒さんがときどきいるのです。
2日間の経営講義中、ずっとマスクを外さない人を見ると、それだけで、この生徒さんは、多分、このビジネスには向かないだろうということが分かります。
サービス業を志す人が、人前でマスクを付けたまま、授業を受けることはあり得ず、また、店頭に立つ場合でも、マスクを付けたまま、接客することはあり得ないのです。
もし、経営講義の授業を受ける場合でも、体調が悪いこと自体が、プロとして失格であると思います。
同時に、健康についてもっと大切なことは、病気にならない程度の健康状態ではなく、エネルギー一杯で、常にやる気満々の状態を保つことが大切であるのです。
現在、ほとんどの日本人は、病気でない程度の健康度の人たちが多いのですが、エネルギー溢れる状態を作り出すことが大切で、そのためには、常に自分のエネルギーを高める研究が欠かせないのです。
最近、私自身のことで良く分かったことは、夕食を6時までに済ませておくと、夜の睡眠のレベルが非常に深いのです。
最近、私はUP24を使って、毎日の睡眠状態をチェックしているので、どのような生活をすれば、深い睡眠を長く伸ばすことが出来るか、ずっと研究していたのです。
最初は、寝る前に風呂に入ったり、入らないで寝て、朝風呂に入ったり、さまざまな試みを行なってみたのですが、どれをやっても、これが決定的な要因だというようなことはなかったのですが、夕食を6時までに済ませると、夜の眠りが非常に深く、それが長く続くことを発見したのです。
これは驚くくらい、大きな違いであり、こんなことであれば、もっと早く実行すれば良かったと思っています。
夕食を6時までに済ませるとすると、夕食は非常に簡単な食事になり、ほぼ1日1食に近くなります。
朝はフルーツだけで、昼食がメインになり、夕食はほとんど食べないような生活が一番、身体に負担がなく、深い眠りを得るには最高の生活のようです。
高いパーフォーマンスを上げるためには、生活の質を上げることは欠かせなく、身体状態を最高に保つために、食べ方が非常に重要であることが、よく分かってきました。
日々のパーフォーマンスを上げるためには、毎日のあらゆる取り組みが重要で、過去の常識に捉われないで、日々、新しいことにチャレンジし続けることが欠かせないのです。
本年2月21日から始まった、半年間以上に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びの最終のまとめに取り組んでいきます。
◆ 時間との闘い
100年前には、知識をもつ人、とくに科学や技術によるイノベーションのために、直ちに働きはじめる用意のある訓練された人材を、ごくわずかの国しかもたなかったのですが、今日では、きわめて多くの国が持っていて、知識によるイノベーションの場合、常に「解放期」が起こり、多くの企業が参入し、その後の「整理期」で、ほとんどの企業が淘汰されることを繰り返していて、これらのことは、次の「2つの意味」をもつのです。
第1に、科学や技術によるイノベーションを行おうとする者にとっては、時間が敵であり、ほかのイノベーション、すなわち、予期せぬ成功や失敗、ギャップの存在、ニーズの存在、産業構造の変化、人口構造の変化、認識の変化にもとづくイノベーションにとって、時間が味方であるのとは大違いであり、科学や知識以外のイノベーションでは、イノベーションを行う者は放っておかれ、たとえ間違っても、修正する時間があり、新しいベンチャーに着手するチャンスも、数回はあるのですが、知識、とくに科学や技術によるイノベーションでは、そうはいかなく、新規参入が可能な開放期は短かく、チャンスは2度となく、最初から失敗してはならないのであり、環境は厳しく仮借なく、開放期が過ぎれば、チャンスは永久に失われるのです。
しかし知識産業のなかには、最初の開放期が終わって20年、30年後に、再び開放期が始まるものがあり、コンピュータがその一例であり、コンピュータ産業の最初の開放期は、1949年から55年頃まで続き、当時、世界の電機メーカーのほとんどすべてが、コンピュータ産業に参入し、アメリカでは、ウエステイングハウス、RCA、イギリスではブリティシュ•ゼネラル•エレクトロニクス、プレッシー、フェランティ、ドイツではジーメンスとAEG、オランダではフィリップスだったのですが、しかし1970年には、それら大手電機メーカーは、すべて不名誉な撤退を余儀なくされ、残ったのは、1949年には存在さえしていなかったような企業であり、あるいは、限界的な存在だった中小の企業であり、アメリカでは、IBMのほかでは、中小のコンピュータ•メーカー7社で、イギリスでは、ICL、GEのコンピュータ部門、プレッシーやフェランテイの残骸であり、フランスでは政府の手厚い保護のもとに、ようやくいくつかのメーカーが残り、日本でも、長期にわたる政府の保護のもとに、辛うじていくつかが残り、1970年代の末、ワープロ、ミニコンピュータ、パソコン、コンピュータと電話交換機の結合をもたらすことになった半導体の出現に伴い、2回目の開放期が始まったのですが、1回目のラウンドで失敗したメーカーは参入せず、1回目のラウンドに生き残った者の多くも、2回目には参入しなかったか、或いは、いやいや遅れて参入し、ユニバック、コントロール•データ、ハネウェル、バローズ、富士通、日立のいずれも、ミニ・コンピュータやパソコンでトップをとろうとはしなかったのですが、例外は、1回目のラウンドのまぎれもない勝者、IBMであり、このようなパターンは、知識にもとづくほかの分野のイノベーションにも見られたのです。
第2に、知識によるイノベーションの開放期が混み合ってきたために、イノベーションを行う者の生き残りの確率が小さくなったのです。
開放期における新規参入者の数は、今後増える一方となるのですが、産業構造は、ひとたび安定し成熟してしまえば、少なくとも一世紀は安定的に続き、もちろん産業構造は、産業によって大きく異なり、技術、資金、参入の容易さ、市場のローカル度によって変わり、それぞれの産業には、それぞれ特有の構造があり、産業によっては大企業、中企業、小企業、専門化した企業など、多様な企業がありうるのですが、コンピュータ産業や近代銀行業のような知識にもとづく産業の場合は、市場は一つになり、グローバル市場であり、したがって、知識によるイノベーションを行う者のうち、その産業が成熟し安定するまで生き残れる者は、もはやあまり多くはなく、しかも主としてグローバル市場と通信の発達により、開放期における新規参入者の数は、大幅に増加しつつあり、ひとたび整理期がくれば、死亡率は昔よりもはるかに高くなり、しかも、整理期は必ずくるので、それは避けられないのです。
自社がどの産業に属するかにより、グローバル市場で闘うのか、ローカル市場で、生き残れるかが決まってくるのですが、簡単に世界流通出来るようなコンピュータの世界は、グローバル市場になり、鉄道のようにその地域のお客さまだけを対象にする場合は、ローカル市場だけの競争になるのです。
◆整理期
整理期は、開放期が終わるとともに始まり、開放期に設立されたベンチャー・ビジネスのきわめて多くが、鉄道や電機、自動車などの昨日のハイテクで見られたように、この整理期を生き延びることができず、本書が出版された1985年ごろ、マイクロプロセッサー、ミニコンピュータ、パソコンの各産業では、開放期が始まってまだ、5、6年しかたたないにもかかわらずすでに整理期が始まっていて、この産業に属する企業は、アメリカだけでも、おそらく100社以上あったのですが、10年後には、一応の規模をもつそれなりの企業でさえ、1ダースを超えることはなかったのです。
いずれが生き残り、いずれが死ぬか、いずれが生きることも死ぬこともできずにいるかはわからず、予測をしても無駄で、規模が大きいために、生き残れるという企業もあるかもしれないのですが、規模の大きさは成功を保証せず、もしそうであるならば、今日、デュポンではなくアライド・ケミカルが、世界で最も業績のよい最大の化学品メーカーになっていたはずであり、1920年、アメリカで化学産業の開放期が始まった頃には、たとえ第1次大戦中、アメリカ政府によって没収された、ドイツの化学特許を手に入れたことが唯一の理由だったとしても、とにかくアライド・ケミカルが無敵の存在だったのですが、7年後の整理期の後、アライド・ケミカルは2流に落ち、爾来、2度と活力を取り戻すことができなかったのです。
1949年当時、GEやジーメンスのような老舗の大企業が、コンピュータで失敗することはもちろん、IBMがコンピュータ産業の巨人として登場してくることさえ、予測できた者はおらず、同じように、1910年から14年にかけ、自動車株がニューヨーク証券取引所の人気銘柄だった頃、GMやフォードが生き残って成功し、当時人気の頂点にあったパッカードやハプモービルが姿を消すと予測した者はおらず、同じように、近代銀行が生まれた1870年代や80年代において、やがてドイツ銀行が、数十にのぼるドイツの老舗の商業銀行を吸収合併し、ドイツの代表的な銀行になることを予測した者はいなかったのです。
いかなる産業が重要な産業となるかは、容易に予測することができ、歴史を見るかぎり、ドラッカーが開放期と呼ぶ爆発的ブーム期を経験した産業はすべて、重要な産業となっていて、問題はそれらの産業において、どの企業が生き残り、主要な地位を占めるにいたるかであるのかですが、それは誰にも分からず、以上のことより、マネッジメントはイノベーションを起こし、その成果を活用する企業にとって、欠くことの出来ない重要な要素であることが分かり、このことに気づいて、マネッジメントのレベルを高め続けている企業はいつしか、他のライバルの気付かないうちに、はるか遠くへ行くことが出来るのですが、気づかないので、マーケテイングとか、イノベーションに無関心な企業は、例え現在、素晴らしいポジションにあろうと、謳歌を楽しんでいようと、未来は明るくないのです。
画像は、一昨日の営業会議の一コマで、国旗の前に立っている私です。
当社の営業会議とか、慰労会はいつも国歌斉唱からスタートします。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。