ウイキペデイアによれば、黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名で、戦国の三英傑に重用され福岡藩祖となり、既に、この時代の先駆けであったキリシタン大名でもあったのです。
嫡子は福岡藩初代藩主黒田長政で、実名は初め祐隆(すけたか)、孝隆(読み同じ)、のち孝高(よしたか)で、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは出家後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られています。
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍し、竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称されたのです。
黒田如水は築城の名手としても知られ、居住した中津城や福岡城の他、前野長康や浅野長政らと共に、姫路城、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(肥前国)、広島 城など、秀吉政権下での主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行ない、加藤清正は、自身の城は3~4日で落ちるが、福岡城は30~40日は落ち ないなどと賞賛していたほどです。
倹約家としも知られ、不要になった物は家臣に売り下げるなど、蓄財に励み、関ヶ原の戦い時にあれだけの速成軍を集めることができたのは、そのためであったのです(一説によれば黒田長政の動員した兵が5,400とされ、それを上回る数であったと言われています)。
一方で兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えたのでした。
黒田如水は、歴史小説等では、不遇の天才武将として描かれることが多く、関ヶ原の徳川家康と石田三成の合戦では、家康が勝利するが長期戦になるだろうと予 見し、その間に九州を制覇し、家康が三成を破って兵が疲労しているところを一気に攻めて家康を倒し、自分が天下を取ろうとしたとの言われています。
しかし息子の長政は西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目を務めており、その結果、関ヶ原の合戦は極めて短期間で終わってしまい、皮肉にも息子の活躍により野望を阻まれた、とする作品が多々存在します。
しかし、史実として確認できる業績からは、下克上や天下取りの野心を示した事は一度もなく、遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」があります。
現在で言えば、59歳の短い生涯でしたが、多くの土地で、たいへんな活躍をした武将で、たくさんの名言を残している武将でもあります。
14.苦労を知らないリーダーは、下の者たちの苦しみをより深く考えるべき
低い身分から次第に立身出世し、高い身分になった場合でさえ、無道であれば、その時々の勢いにまかせて、身分の低い時代の難儀や不自由を忘れ、先々困窮することを考えないのである。
まして、大名の子に生まれては、たとえその心が賢くとも、下々の苦しみや難儀をまだ知らないわけであるから、よくよく深い心がけがなくては、諸士万民に到るまで、疲れ苦しみ、難儀に及ぶものである。
深く考えるべきだ。
15.苦労を知らずに育ったリーダーの弱点
概して、大名の子供は生まれたときから、平素安楽に育ち、難儀をしたことがないから、下々の者の苦労を知らない。
それだから、人の使い方が荒く、下々の困っていることを悟らず、上一人のために万民を悩ますことが多い。
16.教育係に権威をつけることの大切さ
子供の教育係にする侍に対しては、まず主人がそれを心を込めてもてなし、位のつくようにしてやらねばならない。
そうでなければ、その子供が教育係を安っぽくあしらって、それを侮る心が出てきて、ついには教育係をないがしろにして、その忠告を聞き入れず、したがって、振る舞いも改まらないことになるから、大事な問題である。
17.教育係の人選は、人柄をよく考えて
子供の教育係をさせる侍は、その人柄をよく選ばねばならない。
教育係は幼児から子供にかしずき、日夜付き添い、いろいろなことを教えるのであるから、その子供の平生の行ないは、自然と教育係に似てくるものだ。
それだから、教育係を定めるには、幾重にも吟味して、とくとその心底を見定め、心が正直で偽りなく、乱暴でなく、一筋に忠義の志ある者を選ばねばならない。
ただ、その子供の生まれつきの性格に従って、教育係に選ぶ侍の気質に違いができるはずだ。
18.大将は一人強くなっても意味はない
武芸に凝って、ひとり働くことを好むのは、匹夫の勇といって、小心者の嗜みであり、大将の武道ではない。
19.乱世でも武だけではいけない
乱世に文を捨てる人は、軍の道理を悟らないから、制法が定まらず、国家の仕置に私心が多く、家人や国民を愛する術がないから、人の恨みが多い。
血気の勇だけで、仁義の道がないから、士卒に敬慕の念が欠け、忠義の志が薄くなるから、たとえいったん軍に勝つことがあっても、後には必ず亡びるものである。
20.平和な時代も武将の家に生まれたからには、武の道を忘れてはならぬ
たとえ世の中が治まったとしても、大将たる者が武を忘れたならば、軍法がすたり、家中の侍たちも自然と心が柔弱となり、武道の嗜みなく、武芸も怠り、武具も不足し、塵に埋もれ、弓槍の柄(え)は虫の住みかとなり、鉄砲は錆び腐って、役に立たなくなる。
軍法も定まっていないから、もし兵乱が起こった場合には、どうしたならばよかろうと、驚き騒ぎ、喉がかわいてから井戸を掘るようなことになろう。
武将の家に生まれたからには、しばらくも武の道を忘れてはならぬ。
21.気が合う合わないで部下を判断しないことが大切
お前たち家来の間にも、気が合うか気が合わないかによって、仕置をする上に過ちができることがあろう。
気の合う者に対して贔屓して、悪いことも善く思い、あるいは悪いと知りながら、自然とそれに親しむようになるものである。
気の合わない者に対しては、善人をも悪人と思い、道理をも無理のように思い誤ることがある。
気が合う家来、会わない家来とでは、仕置の上にもこのような私心ができてくるものであるから、みな、よく注意せねばならぬ。
22.気の合う間柄でも、互いに注意し注意されることが大切
気の合う家来に対し、ともすれば悪いことを見のがすこともあるだろうから、よく注意して、そうした点を発見し、自分に対して諫言もさせるとともに、また、その者がいい気になって行儀の悪かったときには、傍らに呼びつけて意見をすべきだ。
それでも聞かない時には、この如水に言いつけよ。
よく詮議した上で罪科に処すだろう。
23.上に立つ者は好みに対しても注意が必要
常日頃好むところでも、よくこれを選び慎むことが大切である。
主人の好むところは、家来や百姓町人も、自然とその真似をするものであるから、とくに注意せねばならぬ。
24.上に立つ者は手本とならなければならない
すべて国を治めていくには、普通の人と同じ心がけでは駄目である。
まず、政道に私なく、その上、わが身の行儀作法を乱さず、万民の手本とならねばならない。
25.気の合う部下、気の合わない部下両方に注意する
人には気が合う気が合わないということがある。
主人が家来を使う場合には、とくにありがちなことだ。
気の合う家来が、もし善人であったならば、国の重宝となるが、悪人であったとすれば、国家の妨げとなるのであるから、大変な違いである。
家来たちの中に、たとえ自分と気が合わない者がいて、それを傍ら近く召し使い、軽い用事を勤めさせることがあっても、その者に心を奪われてはならない。
画像は、先日大阪で開業した生徒さんの店、ハート・ツリー・カフェの「ハート・ツリー・カフェの冷製サラダUDON-PASTA」です。
(http://tabelog.com/osaka/A2701/A270102/27080815/)
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。