本日は朝から、讃匠の夏カタログの撮影がスタートしています。
年2回のイベントで、今回は麺學校のキッチンが空いているので、大和のキッチンを使っての撮影で、プロ・カメラマン、フード・コーデイネーター、デザイナー等、合計6名の外部スタッフを交えての大掛かりな撮影です。
夏カタログに合せて、料理も夏用メニューで、涼しそうで、斬新で、美味しそうなメニューを次々に盛りつけ、撮影します。
器も重要で、さまざまな器をたくさん準備しています。
このようなメニュー撮影を讃匠では20年以上も続けていますが、以前のカメラはフィルム式であったので、常にポラロイド・カメラで並行して撮影し、ポラロ イドで映り具合を確認しながらの作業でしたが、今はプロ用デジカメなので、撮影しているそのものずばりを確認しながら、盛り付けを変えたり出来るので、た いへん楽になりました。
本日は、合計10品余りを撮影しますが、最近、うどん学校、蕎麦学校、ラーメン学校では、生徒さんの盛り付けチェックに力を入れて、新しい、きれいな盛り付けを指導しているので、讃匠の盛り付けのチェックにおいても、たいへん役立ちます。
しかし、大和の麺學校と讃匠の盛り付けの違いが一点だけあります。
麺學校で教える盛り付けは、プロの盛り付けなので、麺が見えない盛り付けにこだわりますが、讃匠の場合は、プロの料理ではなく、家庭用料理であるのと、讃匠は麺の会社であるので、わざと麺が見えるような盛り付けを行ないます。
フード・コーデイネーターの方も、今回が3回目なので慣れてきて、私は自分の仕事をしながら、ときどきチェックするだけで、素晴らしい盛り付けをしてくれます。
また、社内のスタッフたちも慣れてきて、食材の準備、全体のアレンジ等、だんだん素晴らしくなってきています。
このような商品撮影に似たものが、飲食店のメニュー撮影で、メニュー撮影も美味しさの演出が大切です。
どの様にすれば、きれいな写真が取れるかの研究は、飲食店においても、重要な研究で、メニュー写真が下手くそであれば、幾ら料理が美味しくても美味しいイメージが沸かないのです。
従って、飲食店を経営しているのであれば、メニュー画像のことまで気をつけてなければいけないのです。
今の時代は、非常に複雑になってきているので、あらゆるところに目を配らせておかなければいけないのです。
一見、単純に見えるビジネスでも、実際の内容は非常に複雑になってきていて、押さえなければいけない部分は、たくさんあるのです。
当社も創業した頃は、私の守備範囲は、専門分野の機械の分野だけで良かったのですが、直ぐに営業関係、麺のノウハウ、マネッジメント全般の理解が必要になりました。
さらに、まだまだ学ばなければいけないことは、増え続けているのです。
ドラッカーも死ぬまで学び続けたそうですが、何かテーマを決め、何年間かは、そのテーマに集中して学んでいたそうです。
昨年までの私は、サービス・マネッジメントに集中したので、今年はドラッカー・マネッジメントに集中し、その中でもマーケテイングとイノベーションに集中するようにしたのです。
そして、ある程度の目途が付き、次の新しい学びのテーマが必要になった時点で、新しいテーマに切り替える予定です。
そして、これからの私の新しい学びのテーマは、たくさん残っています。
一つ学ぶことに更に新しい課題が出てくるので、死ぬまで学ぶことは終わりを迎えることがないのです。
本日夕方から、下記のイベントのために福岡へ移動します。
3月10日(火)より、福岡でイベントが始まり、私も当然、参加します。(https://www.yamatomfg.com/company/dream-studio/dream-studio-fukuoka/)
尚、福岡のイベントでは、今回のLAの出張で垣間見た面白いレストラン事情を共有します。
本日も、ドラッカー選書「イノベーションと起業家精神(上)」(ダイアモンド社)に基づき、イノベーションについて、深くドラッカーから学んでいきます。
ぜひ、一緒にイノベーションと起業家精神を磨いていきましょう。
「3.外部の予期せぬ変化」
これまで、予期せぬ成功や失敗は、企業や産業の内部で起こるものとして論じてきましたが、マネッジメントが、今日手にしている外部の事実、すなわち、情報 や数字には表れない事象も同じように重要な意味を持ち、それらの事象は、企業や産業内部の事象よりも重要であることが多いのです。
「パソコンと、本のスーパー」
次にあげる2つの例は、外部の予期せぬ変化を利用して、イノイベーションの機会とすることに成功した典型的なケースであり、その一つがIBMのパソコン市場への進出なのです。
IBMでは、1970年代に入ってからもしばらく、社内の経営管理者や技術者の間にさまざまな意見の対立が見られたが、唯一、意見が完全に一致しているこ とが一つだけあり、それは、より大きなメモリーと計算能力を持つメイン・フレーム・コンピュータこそ、未来を担うものだということだったのです。
IBMの技術者たちは、それ以外では費用がかかり過ぎ、しかも複雑すぎて能力に限界があると確信していたので、IBMはメインフレーム分野でトップの地位を守ることに、あらゆる資源と努力を集中していたのです。
ところが、1975年か76年頃、驚いたことに、10歳そこそこの子供たちが、コンピュータでゲームをするようになり、ときを同じくして、その父親たち が、最も小型のメインフレームと比べてさえ、はるかに性能の劣るパソコンを使い始め、起こりえないとしていたことが実際に起こったのです。
パソコンは、メイン・フレーム・コンピュータに接続した端末機器よりも費用が数倍かかり、能力がはるかに劣っていただけでなく、ほとんど互換性のないさま ざまなハードとソフトが作られたため、すべてが混乱状態に陥り、サービスも補修も満足には行なわれていなかったのですが、消費者の方は、一向に困った様子 を見せなかったのです。
それどころか、1979年から84年というわずか5年間で、パソコンの売上は、年間1500億ドルから1600億ドルという、メイン・フレーム・コンピュータが達成するのに30年かかった水準に達したのです。
もちろんIBMとしては、そのような状況を無視してもおかしくなかったのですが、IBMは、(メイン・フレーム・コンピュータの市場が70億ドルだったの に対し)パソコン市場が2億ドル以下だった1977年、独自のパソコンを開発すべく、相互に競争し合う2つのプロジェクト・チームを作ったのです。
パソコン市場が爆発的に伸び始めた1980年には、独自のパソコンを生産し始め、その3年後の1983年には、早くもメイン・フレーム・コンピュータ市場と同じように、パソコン市場でもトップの地位を占め、同年には、ピーナッツという家庭用パソコンまで発売したのです。
私はIBMの人たちと話をするたびに、「パソコンの普及など起こるはずがなく、無意味であると信じていながら、機会になると考えるようになったのはなぜか」と尋ねると、答えはいつも同じだったのです。
「起こるはずもない無意味なことと信じていただけに、ショックだった。当たり前のように信じていたことが、すべてゴミ箱行きになってしまった。そこで、外へ出て、起こるはずのないのに起こってしまったものを調べて、利用することにした。」
もう一つの話は、もっと平凡であり、派手な話しではないが、同じように示唆に富んでいるのです。
全国に無料の公立図書館があったせいもあったのですが、アメリカでは、過去、本が良く売れたことは一度もなかったのです。
1950年代初めにテレビが登場し、多くの人たち、しかも特に高校生や大学生など読書年代の若者の多くが、ますます多くの時間を、ブラウン管の前で過ごすようになったとき、誰もが書籍の売上の大幅ダウンを当然のこととしたのです。
事実、焦った出版社の多くは、教育産業やコンピュータ・プログラムに多角化して、そのほとんどが失敗したのです。
ところが、テレビの登場後、書籍の売上は大幅な伸びを見せ、その伸び率は、所得、読書年代人口、進学率のいずれの伸び率をも数倍上回っていたのですが、なぜそのようなことが起こったかは分からなかったのです。
それどころか、そのようなことが起こったことさえ気付かず、しかも相変わらず、一般的なアメリカ人家庭にはほとんど本がなかったのです。
同様に、一人当たりの書籍購入額が世界一であって、アメリカの2倍に達していた日本でも、同じことが起こっていたのです。
それらの本は、いったい、どこへ行ったのかという問いに答えられないとしても、書籍の売上が伸びているという事実は変わりなかったのです。
もちろん出版社や書店は、書籍の売上が伸びていることに気づいていたが、何もしなかったのです。
この予期せぬ変化をイノベーションの機会として捉えたのが、実はミネアポリスやロサンゼルスの百貨店やスーパーで、彼らは本を扱ったことはなかったが、小売については知っていたのです。
そこで彼らは、それまでのものとは違う新しい書店チェーンを展開していき、それらの新しい書店は、本のスーパー・マーケットで本を文献としてではなく、大衆消費財として扱い、棚面積当たりの売上が大きなものを中心に扱ったのです。
店自体も、それまでの常識だった大学近くの土地の安いところではなく、人通りの多い繁華街に開き、それまでは、書店主と言えば文学好きの人たちであり、店員には本好きが採用されていたのですが、新しい書店チェーンの店長は、化粧品を売っていた様な人たちだったのです。
彼らの間では、本の定価以外のところに目を通したがる者は店員として失格だというのが冗談混じりの定説になり、登場して10年後には、それらの書店チェー ンは、アメリカ小売業全体の中で、最も急速に成長し、成功していて、あらゆる成長産業の中でも最も成長が早かったのです。
以上のように、イノベーションは技術革新だけではなく、われわれの身の回りで、想像もしていなかったような新しい社会のシステムを出現させ続けているのです。
日本では、私の小さいころはどこの街にも、魚屋、米屋、酒屋、八百屋、豆腐屋等々、単一ビジネスを営む店舗が点在して、それぞれの適正な規模で繁盛していたのです。
ところが、そのような店のほとんどは淘汰されてしまい、生き残ることは出来なかったのです。
モータリゼーションの始まりと共に、最初にスーパー・マーケットが出現し、ダイエーが話題になり、スーパー・マーケット・チェーンが全国展開を始めたのもこの頃です。
その後、コンビニエンスが出現し、日本のコンビニエンスは世界最強と言われるようになったのです。
その後、ファッションの専門チェーン、電機の専門店チェーンが全国展開し、DIY、ドラッグ・ストアとさまざまな大型専門店が、続々と日本列島をカバーしているのです。
外部環境の変化に適応した店舗だけが生き残り、適応することが出来なかった店舗は淘汰されている歴史を、戦後70年の間、われわれは見続けてきているのです。
外部環境の変化に適応し、イノベーションを起こした店舗だけが生き残ることが出来、更に次のイノベーションが起き、エンドレスに変わり続けているのです。
従って、外部環境の予期せぬ変化を捉え続け、それに対応し続けることは、生き残る上では欠かせないことなのです。
以上は、流通のジャンルですが、飲食のジャンルでも、同じような外部環境の変化が続いているのです。
最近の日本での傾向としては、飲酒規制の影響により地方では、飲食店におけるアルコール摂取が減少して、ノン・アルコール・ビールの伸びが大きいのです。
洋酒メーカーであるサントリー等でも、販売におけるアルコール比率が大きく落ち込み、アルコールの入っていない飲料の割合が大きくなっています。
まだ日本では、それほど行き届いていないのですが、欧米では健康志向が高まり、無化調、無添加、グルテン・フリーの麺、パン類が増えています。
外部環境の変化は、外へ出て、少し注意してみれば、幾らでも見えるのです。
あれだけ、パソコンを否定していたIBMの人たちもパソコンの推移を注意深く見ていたので、スムーズに対応が出来たのです。
従って、われわれは常にわれわれの業界で起きていること、近い部分、とくに将来大きな影響を及ぼすかも分からない分野については、絶対に目を離してはいけないのです。
当社もグルテン・フリーとか、当社のビジネスに将来影響を及ぼすかも知れない分野には、常に注意をしているのです。
そして、業界の進む方向を見続けていくことが欠かせないのです。
これからは、国内だけではなく、海外の動きも非常に重要になってきます。
画像は本日の讃匠の全体朝礼で、大きな声で檄を飛ばしている様子です。
讃匠では毎月、全体朝礼を行ない、誕生日のプレゼント等を行ないます。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。