本日のテーマは「際立つ個性」です。
昨日から、うどん学校とラーメン学校の経営講義がスタートし、海外、国内の生徒さんたちが勢ぞろいしました。
本社の経営講義では初めて、ロッキーのテーマで登場しましたが、ラーメン学校の生徒さんたちは、初日だったので、一様に何が起きたのだろうかと言うような表情で、すでに当社の社風に慣れているうどん学校の生徒さんたちには、大いに受けたのです。
当社自体が、すべてにおいて際立った個性のある会社を目指しているので、当社のことをまだ理解していないラーメン学校の生徒さんたちには、たいへん違和感のある会社であるかも知れないのですが、すでに当社で数日間過ごしている生徒さんたちにとっては、際立った個性があることに慣れてしまっているのです。
大が小に勝つ戦略として、或いは、事業を始めるに当たり、ゼロからのスタートを切る場合の戦略として、ボストン・コンサルテイング・グループ(BCG)が提唱する「アドバンテージ・マトリックス」によれば、1つ目は、出来るだけ多くの競争変数で勝負する、2つ目の戦略として、際立った個性で勝負する、の2つの戦略があるのです。
そして、1つ目の多くの競争変数の場合は、規模が小さいうちだけに成立する戦略ですが、2つ目の際立った個性の場合は、規模が小さくても、中間でも、大きくても成立する戦略なので、長い目で見た場合は、2つ目の際立った個性で勝負する方が有利な戦略と言えるのです。
私は当社を創業した当時より、このようなことに気づかず、他社の真似をしないで、際立った個性で勝負してきたのですが、最近になり、当社の取ってきた戦略が正しかったことが良く分かりました。
私が際立った個性にこだわってきたのは、多分にホンダを創業した本田宗一郎の影響が大きく、昔のホンダは非常に個性の強い会社であり、私の好きな会社であったのですが、最近のホンダは個性が無くなってきたのが残念です。
際だった個性で勝負する戦略は、規模の大小にかかわらず成り立つ戦略であることは、多くの成功しているビジネスを見れば良く分かります。
昨日の経営講義でも説明をしたのですが、博多一風堂が創業したのは、丁度30年前の10月で、博多一風堂のHPから拾ってきた、博多一風堂の創業のコンセプトは次の通りです。
「歴史とこれから 博多一風堂」
博多 一風堂が産声を上げたのは1985年10月16日。
「ラーメン業界に一陣の風を巻き起こす」カウンター10席だけの小さな店「一風堂」の店名に込められた熱い想いとともに提供される1杯は、「豚骨ラーメン」の常識を覆す。
店主・河原成美がつくり上げたのは、豚の臭みを除去したマイルドな味の豚骨ラーメン。まるで木工彫刻家のアトリエのような、木をふんだんに使った洒落た店内は隅々まできれいに磨き上げられていた。
流れるBGMはモダンジャズ。
心の行き届いた温かい接客は店に活気を呼び込んだ。何もかもが画期的だった店は、それまでラーメンとは無縁だった女性客の支持も集め、博多のラーメン業界に一陣の風を巻き起こした。
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以上のように、そのころ博多の街にたくさんあったトンコツラーメン店とは、何かかもが違っていて、際立った個性の光っている店であったのです。
その博多一風堂のライバルとして、切磋琢磨して伸びてきたのが、同じ博多トンコツでも、一風堂とまったく異なった個性的な店で勝負した一蘭であったのです。
このように、競争変数の非常に多い、アドバンテージ・マトリクスの1つ目の事例であるラーメン業界でも、長く成功している店舗は、際立った個性で勝負しているのです。
うどん業界でも、丸亀製麺、つるとんたん等、成功している店舗はすべて際立った個性の光る店舗ばかりなのです。
麺学校へ参加する生徒さん、実際に開業する新規開業者の人たちのほとんどが際立った個性を避けて、無難な、今までたくさんある店舗と同じような店舗を作り、いつの間にか開店し、いつの間にか閉店しているのです。
麺業界とか、飲食業界だけでなく、自動車業界、或いは携帯電話等々、すべてのビジネスでの真の成功者は、際立った個性で勝負している人たちなのです。
もっと、リスクから逃げようとしないで、リスクを取って思い切り、際立った個性で勝負することにチャレンジして欲しいものです。
本年2月21日から始まった、173日間に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びを終え、最終のまとめに取り組んでいきます。
「パソコンと、本のスーパー」
次にあげる2つの例は、外部の予期せぬ変化を利用して、イノイベーションの機会とすることに成功した典型的なケースであり、その一つがIBMのパソコン市場への進出に関してで、IBMでは、1970年代に入ってからもしばらく、社内の経営管理者や技術者の間にさまざまな意見の対立が見られたが、唯一、意見が完全に一致していることが一つだけあり、それは、より大きなメモリーと計算能力を持つメイン・フレーム・コンピュータこそ、未来を担うものだということであり、IBMの技術者たちは、それ以外では費用がかかり過ぎ、しかも複雑すぎて能力に限界があると確信していたので、IBMはメインフレーム分野でトップの地位を守ることに、あらゆる資源と努力を集中していたのです。
ところが、1975年か76年頃、驚いたことに、10歳そこそこの子供たちが、コンピュータでゲームをするようになり、ときを同じくして、その父親たちが、最も小型のメインフレームと比べてさえ、はるかに性能の劣るパソコンを使い始め、起こりえないとしていたことが実際に起こり、パソコンは、メイン・フレーム・コンピュータに接続した端末機器よりも費用が数倍かかり、能力がはるかに劣っていただけでなく、ほとんど互換性のないさまざまなハードとソフトが作られたため、すべてが混乱状態に陥り、サービスも補修も満足には行なわれていなかったのですが、消費者の方は、一向に困った様子を見せなかったどころか、1979年から84年というわずか5年間で、パソコンの売上は、年間1500億ドルから1600億ドルという、メイン・フレーム・コンピュータが達成するのに30年かかった水準に達したのです。
もちろんIBMとしては、そのような状況を無視してもおかしくなかったのですが、IBMは、メイン・フレーム・コンピュータの市場が70億ドルだったのに対し、パソコン市場が2億ドル以下だった1977年、独自のパソコンを開発すべく、相互に競争し合う2つのプロジェクト・チームを作り、パソコン市場が爆発的に伸び始めた1980年には、独自のパソコンを生産し始め、その3年後の1983年には、早くもメイン・フレーム・コンピュータ市場と同じように、パソコン市場でもトップの地位を占め、同年には、ピーナッツという家庭用パソコンまで発売したのです。
私はIBMの人たちと話をするたびに、「パソコンの普及など起こるはずがなく、無意味であると信じていながら、機会になると考えるようになったのはなぜか」と尋ねると、答えはいつも同じで、「起こるはずもない無意味なことと信じていただけに、ショックだった。当たり前のように信じていたことが、すべてゴミ箱行きになってしまった。そこで、外へ出て、起こるはずのないのに起こってしまったものを調べて、利用することにした。」
もう一つの話は、もっと平凡であり、派手な話しではないが、同じように示唆に富んでいて、全国に無料の公立図書館があったせいもあったのですが、アメリカでは、過去、本が良く売れたことは一度もなく、1950年代初めにテレビが登場し、多くの人たち、しかも特に高校生や大学生など読書年代の若者の多くが、ますます多くの時間を、ブラウン管の前で過ごすようになったとき、誰もが書籍の売上の大幅ダウンを当然のこととしたのです。
事実、焦った出版社の多くは、教育産業やコンピュータ・プログラムに多角化して、そのほとんどが失敗したのですが、テレビの登場後、書籍の売上は大幅な伸びを見せ、その伸び率は、所得、読書年代人口、進学率のいずれの伸び率をも数倍上回っていたのですが、なぜそのようなことが起こったかは分からず、それどころか、そのようなことが起こったことさえ気付かず、しかも相変わらず、一般的なアメリカ人家庭にはほとんど本がなく、同様に、一人当たりの書籍購入額が世界一であって、アメリカの2倍に達していた日本でも、同じことが起こっていたのです。
それらの本は、いったい、どこへ行ったのかという問いに答えられないとしても、書籍の売上が伸びているという事実は変わりなく、もちろん出版社や書店は、書籍の売上が伸びていることに気づいていたが、何もしなかったので、この予期せぬ変化をイノベーションの機会として捉えたのが、実はミネアポリスやロサンゼルスの百貨店やスーパーで、彼らは本を扱ったことはなかったが、小売については知っていたので、そこで彼らは、それまでのものとは違う新しい書店チェーンを展開していき、それらの新しい書店は、本のスーパー・マーケットで本を文献としてではなく、大衆消費財として扱い、棚面積当たりの売上が大きなものを中心に扱い、店自体も、それまでの常識だった大学近くの土地の安いところではなく、人通りの多い繁華街に開き、それまでは、書店主と言えば文学好きの人たちであり、店員には本好きが採用されていたのですが、新しい書店チェーンの店長は、化粧品を売っていた様な人たちで、彼らの間では、本の定価以外のところに目を通したがる者は店員として失格だというのが冗談混じりの定説になり、登場して10年後には、それらの書店チェーンは、アメリカ小売業全体の中で、最も急速に成長し、成功していて、あらゆる成長産業の中でも最も成長が早かったのです。
以上のように、イノベーションは技術革新だけではなく、われわれの身の回りで、想像もしていなかったような新しい社会のシステムを出現させ続けているのです。
日本では、私の小さいころはどこの街にも、魚屋、米屋、酒屋、八百屋、豆腐屋等々、単一ビジネスを営む店舗が点在して、それぞれの適正な規模で繁盛していたのですが、そのような店のほとんどは淘汰されてしまい、生き残ることは出来ず、モータリゼーションの始まりと共に、最初にスーパー・マーケットが出現し、ダイエーが話題になり、スーパー・マーケット・チェーンが全国展開を始めたのもこの頃で、その後、コンビニエンスが出現し、日本のコンビニエンスは世界最強と言われるようになったのです。
その後、ファッションの専門チェーン、電機の専門店チェーンが全国展開し、DIY、ドラッグ・ストアとさまざまな大型専門店が、続々と日本列島をカバーし、外部環境の変化に適応した店舗だけが生き残り、適応することが出来なかった店舗は淘汰されている歴史を、戦後70年の間、外部環境の変化に適応し、イノベーションを起こした店舗だけが生き残ることが出来、更に次のイノベーションが起き、エンドレスに変わり続けているので、外部環境の予期せぬ変化を捉え続け、それに対応し続けることは、生き残る上では欠かせないことなのです。
以上は、流通のジャンルですが、飲食のジャンルでも、同じような外部環境の変化が続いていて、最近の日本での傾向としては、飲酒規制の影響により地方では、飲食店におけるアルコール摂取が減少して、ノン・アルコール・ビールの伸びが大きく、洋酒メーカーであるサントリー等でも、販売におけるアルコール比率が大きく落ち込み、アルコールの入っていない飲料の割合が大きくなり、まだ日本では、それほど行き届いていないのですが、欧米では健康志向が高まり、無化調、無添加、グルテン・フリーの麺、パン類が増えていて、外部環境の変化は、外へ出て、少し注意してみれば、幾らでも見えるのです。
あれだけ、パソコンを否定していたIBMの人たちもパソコンの推移を注意深く見ていたので、スムーズに対応が出来、従って、われわれは常にわれわれの業界で起きていること、近い部分、とくに将来大きな影響を及ぼすかも分からない分野については、絶対に目を離してはいけないのです。
当社もグルテン・フリーとか、当社のビジネスに将来影響を及ぼすかも知れない分野には、常に注意を払い、業界の進む方向を見続けていくことが欠かせず、これからは、国内だけではなく、海外の動きも非常に重要になってきます。
画像は、昨日の経営講義の様子です。
多くの質問があればあるほど、講義は活性化するのです。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。