本日のテーマは「マーケテイングは、リーダーシップ」です。
本日の「イノベーションと起業家精神」の本文より、産業構造の変化を活用してイノベーションを起したのは、その産業の外にいた人たちであったり、新規に参入した人たちであり、決して恵まれている立場ではなく、むしろ弱者の場合が多いことが分かりました。
日本で、戦後自動車を普通の人たちが買い求め始めたのは、私が川崎重工へ入社したころで、まず職場の係長とか、上司の人たちが自動車を買い始め、誰がどの車に乗っているということが話題になったり、自動車を持っていることが自慢になった時代で、東京オリンピックの1964年より少し後のことでした。
最初はオートバイだけだったホンダ技研が自動車に参入したのが、1963年であり、ホンダ技研は相当リスクを取って、参入したことが分かります。
ホンダ技研が自動車に参入した当時は、トラック専業メーカーになっているいすゞとか、日野自動車も乗用車を生産し、特にいすゞの乗用車は人気があったのですが、すでに乗用車から撤退し、トラックだけの専業メーカーになり、二輪車から参入したホンダ技研とスズキが自動車ビジネスで健闘しているのです。
改めて、ビジネスには、リスクを取る大切さが理解出来、イノベーション体質でなければ、ビジネスの世界を生き延びることは難しいことが分かります。
イノベーションを起こし続けるためには、常に7つの機会についてアンテナを張り、内部、外部の情報に敏感になり、情報を分析し、不要になったものを廃棄し、新しい可能性にチャレンジし続けることが欠かせないのです。
そのために、組織のトップはお客さまのニーズの変化、価値観の変化、ライフスタイルの変化に敏感になり、その研究を常に行ない続けなければいけないのです。
世の中の変化を理解し続け、イノベーションのチャンスを探し続けるのが、トップ及び経営幹部の重要な仕事であるのです。
「企業の目的は、製品やサービスが何であれ、極めて満足した顧客、ユーザーを創造する」ことであるので、極めて満足した顧客、ユーザーを想像し続けるためには、お客さまの価値感、ニーズ、ライフスタイルの変化に敏感にならないと、到達することは出来ないので、ますます、お客さまの研究は大切になってくるのです。
まして、グローバルにビジネスをやっていると、その土地の事情を理解しないと、お客さまを満足させることが出来ないのです。
今朝もフェイスブックで、オーストラリアで最近開業したお客さまから、現地での製麺をやっている人の人件費が日本円で2600円との報告がありました。
このような情報も、当社のイノベーションにとっては欠かせない情報で、海外での人件費は、驚くほど高い国が多いのです。
日本でも最近は、人手不足に拍車をかけて、これからは人件費の高騰が想定され、人手不足時代、人件費高騰時代に成り立つビジネスを作り上げることが必須条件になっています。
今までの日本は、豊富な人手と安い人件費に安住してきたようなところがあり、これからのビジネスは、付加価値の高さが求められる時代になってきたのです。
併せて、ビジネスに取り組む人たちのマネッジメント力が足りなくても、高いポテンシャルを上げることが出来るような仕組みも必要で、起業家にとり、日本でのビジネスは決して、簡単ではなくなっています。
改めて、人口減少して、経済規模が縮小する国でのビジネスがいかにたいへんであるかをこれから、日本でビジネスをやる人たちは体験し、同時にこれらの体験は世界に出れば、生きてくるのです。
「優れたマーケティングとは、顧客の短期と長期の目標および、顧客が考える良い成果とは何かを理解する」ですが、これについても、お客さまの価値感、ニーズ、ライフスタイルの変化に敏感になり続けなければ、理解出来ないのです。
現在の経営者は、社内と社外の双方のお客さまの理解をし続けることが、欠かせず、それがエクスターナル・マーケテイングとインターナル・マーケテイングであり、実は双方ともマーケテイングであり、マーケテイングとは、リーダーシップでもあったのです。
そして、リーダーシップ8つの原則とは、以下の通りです。(「ピータードラッカー マーケターの罪と罰」より)
①絶対的な誠実さを維持すること。
②自分の資質を知ること。
③期待する成果を明言すること。
④並外れたコミットメントを示すこと。
⑤良い結果を期待すること。
⑥人を大事にすること。
⑦自己より義務を優先すること。
⑧先頭に立つこと。
今週の本社での経営講義は、土日、16、17日の両日、開催します。
まだ、ご参加されていない新規開業希望者の方は、取り敢えず、経営講義だけでも参加されると、大きなリスクヘッジになるはずです。
昨年2月21日から始まった、半年間以上に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びの最終のまとめに取り組んでいきます。
イノベーションの機会
外部の者にとってのチャンス
産業構造の変化は、その産業の外にいる者に対し、例外的とも言うべき機会を与えるのですが、ところが産業の内にいる者にとっては、その同じ変化が脅威に見えるので、イノベーションを行なう外部の者は、さしたるリスクを冒すことなく、急速に大きな勢力を得ることが出来、以下のような、幾つかの例があります。
1950年代、ウオール・ストリートの証券会社で働いていた3人の若者が知り合い、彼らは、大恐慌以来20年間無風状態だった証券業界が、大きな変化の時代に入ろうとしていること、またその変化が、資金もコネもない者に対し機会を、提供しているということで考えが一致したので、彼らは、ドナルドソン・ラフキン&ジェンレットという証券会社を設立し、その5年後の1959年、同社はウオール・ストリートで主要な地位を占めるまでに成長したのです。
彼らは、証券業界にとっての新しい顧客、すなわち年金基金の運用責任者という新しいタイプの顧客が、急速に大きな存在になっていることを知り、しかもその新しい顧客は、さして難しいことを求めているわけではなく、単に新しいことを1つ求めているだけで、既存の証券会社は、それらのサービスを提供していなかったので、ドナルドソン・ラフキン&ジェンレットは新しく登場してきた新しい顧客に的を絞り、「調査サービス」を行なう証券会社になったのです。
同じころ、証券業界にいたもう一人の若者が、証券業界に構造変化が起ころうとしており、その変化が新しい証券会社をつくる機会になり得ることを理解し、この若者が発見したイノベーションの機会は「賢明な投資家」で、彼はその機会をとらえて大きな事業、しかも今日さらに成長しつつある事業を築いたのです。
医療の世界でも、1960年代の初めか半ば頃に構造変化が起こり始め、中西部のある大病院の管理部門で働いていた3人の若者、しかも全員20代の若者たちが、この構造変化がイノベーションの機会を提供していると判断し、彼らは、病院の厨房、洗濯、建物管理などの庶務的な仕事には、専門能力が必要になるということで意見が一致し、そこで、彼らはそれらの仕事を組織的に行なう会社を作り、各地の病院に対し、自社の訓練した要員を派遣し、その費用はコストの削減額の一部で賄うという契約を示し、20年後の今日、この企業は10億ドル規模に発展しているのです。
最後の例が、MCIやスプリント(スプリントは、私鉄のサザン・パシフィックが設立)を初めとする長距離通話割引会社で、いずれも通信産業以外から参入した企業で、それらの企業はAT&Tの長距離通話の料金体系にほころび(矛盾)を見つけたのです。
長距離通話は、第2次世界大戦までは、政府機関や大企業のもの、或いは家族の死亡など緊急連絡用のものだったのですが、第2次世界大戦後、日常のものとなり、成長分野になったのですが、AT&Tは、料金決定の権限を持つ州当局からの圧力もあって、長距離通話を贅沢品として位置付け、コストを大幅に上回る料金を取り、その利益を近距離通話の補助に回し、AT&Tはこの不合理に対する緩和策として、長距離通話の大口利用者に対してだけ、大幅な割引を行なったのです。
1970年頃、長距離通話からの収入が、近距離通話の収入と肩を並べ、追い越しそうになってきたのですが、料金体系は据え置いたままだったので、新規参入者はこの状況を機会としてとらえ、彼らは大口利用したとして、割引を受け、それを分割して再販し、割引分は利用者との山分けで、彼らは大きな利益を上げ、利用者も長距離通話料金を大幅に節約することが出来、10年後の1980年初めには、割引会社の扱う長距離通話は、彼らが登場した頃、AT&Tが扱っていた長距離通話を上回るに至ったのです。
ここに挙げた例には、1つだけ共通することがあり、それは、イノベーションを行なったものが、もともと機会の存在を知っていたことで、しかも彼らは、最小のリスクのもとに成功することを確信していたのです。
日本にも、同じような事例は無数になり、以上の事例から学べることはたくさんあり、日本の事例では、戦後の1946年(昭和21年創業)で、オートバイ事業から出発したホンダ技研は、創業17年後の1963年(昭和38年、東京オリンピックの前年)には、四輪車業界に参入し、この頃の日本は高度成長期に突入した頃であり、オートバイから始まったモータリゼーションの波は、欧米のように、すぐに四輪車の時代になることは、この頃の人たちの誰もが予見することが出来たのですが、この頃の2輪車メーカーのうち、果敢に4輪車ビジネスに参入したのは、ホンダとスズキだけであったのですが、結果として、両社とも大成功し、もし、両社とも4輪車ビジネスに参入していなかったら、現在の企業規模の何分の1でしかなく、企業としての体力も十分でなかった頃であったのですが、自動車ビジネスの到来を予見し、新市場に積極果敢に進出し、結果として大成功したのです。
ホンダは、国内での自動車メーカーとしての地歩を固めながら、同時に世界一の2輪車メーカーとして、世界各地に製造工場を作り始め、アメリカにおいても、設備投資の軽い2輪車工場を先に作り、その後、1982年(昭和57年)には、オハイオ州メアリーズビル(コロンバス郊外)にて、日本の自動車メーカー初となるアメリカ合衆国での四輪車(アコード)の現地生産を開始し、昨今の日本の企業のグローバル化の手本とも言える大規模な日本国外への展開を、時代に先駆けて行ったのです。
2輪車のジャンルで世界一であったにせよ、業界最後発で、自動車に進出し、日本では業界2位のシェアを占めるようになっている現実を見ると、必要な時期に、伸びている市場(構造変化が起きている市場)に進出することの大切さを読み取ることが出来、本田技研の場合、4輪車に進出した時は最小のリスクではなかったかも知れませんが、4輪車工場を海外展開した時は2輪車工場を最初に作り、現地でのさまざまな経験を積んでから4輪車工場を作ったので、他の4輪車メーカーより、はるかに小さいリスクで海外進出が出来たのです。
他に、産業構造の大きな変化を予見して、過去成功したビジネスに、冷凍食品ビジネスがあり、家庭の主婦が外へ働きに出るようになり、料理を作る時間を省くためのさまざまな商品が出始め、デパ地下の惣菜、スーパーの惣菜コーナー、持ち帰りすし、弁当、そして冷凍食品ビジネスが大きく伸び、同時に、外食ビジネスも大きく伸び、最初はファミレスから始まり、次に専門店が強くなり、うどん蕎麦店、ラーメン店の順で伸び続けてきました。
最近までは、日本の外食はサラリーマンを対象にしていたビジネスが成功していたのですが、生産年齢人口の減少と共に、これからの日本は、女性とシニアの時代になり、更にビジネスの内容も大きく変貌を遂げていこうとしていて、常に、外部環境は10年単位で大きく変わり続けています。
しかし、さまざまな構造変化をシッカリ凝視していると、どのように変わっていくのかは、予見することが出来なくはなく、その予見により、自社の資源を有効活用出来る、可能性の高いビジネスの仮説を立てることは難しくはないので、いよいよ、われわれの出番なのです。
画像は、先週金曜日の営業会議の後の新年会の一コマです。
私にビンゴの道具を回す役目が当たり、出た番号を読み上げているところです。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。