本日のテーマは「適切な人が先」です。
昨日は朝の便で高松空港を発ち、羽田経由で帯広へ行きましたが、ANAのシステム障害で、高松空港で1時間出発が遅れ、羽田空港でも1時間出発が遅れ、帯広へ到着したのは、2時間遅れでした。
羽田空港のANAラウンジで待っていると、羽田発の多くの便が次つぎと欠航する様子を放送しているのですが、私が乗る羽田から帯広までの便が欠航しなかったのは、ANAの直接運行ではなく、AIRDOとのコードシェア便であったためではなかったかと思いますが、欠航にならずに無事に帯広に到着出来てホッとしました。
帯広空港では、当社の札幌のスタッフの宍戸さんと、今回のセミナーの依頼元の「帯広地域雇用創出促進協議会」の窓口の三崎さんが出迎えてくれたのです。
三崎さんの車で、ホテルまでご案内戴きながら、帯広の様子を聞いたり、その後のセミナーにご参加されたお客さまとの打合せを通じて感じたのは、十勝、帯広地区の景気の良いことでした。
今までは、一般的に本州より北海道の景気が悪い場合が多かったのですが、十勝、帯広地区では農業が潤っているようで、景気の良い話を聞かされたのですが、このような事実も現地に行かないと分からないことなのです。
昨日夜のセミナーでは、元々予定していた参加者数よりも人数がだいぶ増えていて、私の知っている人たちが何人も余分に参加していました。
ラーメン学校卒業生、蕎麦学校、パスタ学校の卒業生等、麺学校の卒業生の方が何人もいて、まるで、麺学校の同窓会のようで、私の話をわざわざ遠方から聞きに、駆けつけてくれたのです。
今回の講演で、私に与えられたタイトルは、「麺ビジネス海外進出~日本の麺が海外に広がっている~世界で今、麺ブームがおこっている。アウトバンドを目指す方に、日本の麺で海外ビジネスを行うノウハウを学ぶ。」であったのですが、来場されているお客さまに合わせて、内容を少し調整したのです。
聞きたい希望の内容を知り、ご希望に合わせて、話の内容を変えたかったので、参加者の方がたに質問を促がしたのですが、最後まで質問は一切なく、7時から始まった私のセミナーは丁度9時で終えたのです。
担当の三崎さんにお伺いすると、毎回行っているこのようなイベントで、参加者からの質問が出ることはまずないそうで、私の時だけ質問がなかったのではないようでした。
2時間ほどで、講演を終えると、私の周りに参加者の方がたが来られて、恒例の記念撮影を行ない、1人の参加者の方から相談したいことがあるとのことで、ホテルまで帰って、その方と1時間余り打合せを行なったのです。
本業は麺関係とは違い、多くのビジネスを手がけている方で、海外と国内での麺ビジネスの展開を目指している方で、ビジネス自体の経験は長いのですが、麺ビジネスを自身で体験したことはないので、いろいろとアドバイスが欲しいとのことでした。
このような相談はときどきあるのですが、海外の麺ビジネスを理解している人は多くないので、最近はそのような相談が多いのです。
この方も経営者としての経験が30年あり、多くの会社を経営しているので、新しいビジネスを始めるときは、信頼して任せられる人がいれば始めるとので、私とまったく同じ考えを持っていたのです。
要するに、新しいビジネスを始めるかどうかを決めるのは、そのビジネスに合う情熱を持った人がいるかどうかで判断して、次つぎと新しいビジネスを立ち上げているのですが、そのいずれもがうまくいっているそうです。
麺学校に参加する生徒さんの多くは、事業を始めることを優先し、人の問題は後回しになっていて、人がいないためにうまくいかない場合が多いのですが、これはビジネスの本質を理解していないためで、ビジネスを始めるには、まず人が先なのです。
当社の幹部のマネッジメントの教科書である、「ビジョナリー・カンパニー②」の中にも、「まず、適切な人を集めなさい。適切な人が集まったら、バスに乗せて行き先を決めなさい。」と書いてあるのです。
ほとんどの新規起業の場合は、これと反対で、最初に行き先が決まっているが、適切な人が決まっていないのです。
本日は、午前中に宿泊したホテルの近くにあり、当社のリッチメンを麺研究用に使用している「帯広畜産大学」の先生にお会いし、パン生地の研究の内容を詳しくお話しして戴いたのですが、パンも麺も同じ小麦粉を使用するので、共通している部分が多くあり、たいへん懐かしく聞かせて戴いたのです。
時間を忘れてお聞きしていると、出発の時間になり、今回ご案内して戴いた三崎さんと当社のスタッフと一緒にランチを食べようと思って、ホテルまで戻ると、平日にもかかわらず、ホテルの洋食、和食とかなり客席のある、すべてのレストランは、女性客で一杯でした。
これからの時代の飲食は、女性とシニアが中心になるであろうという仮説の正しさをまざまざと見せつけられました。
丁度1年前の昨年2月21日から始まった、半年間以上に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びの最終のまとめに取り組んでいきます。
「富の創出能力の増大」
既存の資源から得られる富の創出能力を増大させるのも、すべてイノベーションであり、トラックの荷台を荷物ごと切り離して貨物船に載せるという考え方は、新技術とはかかわりがなかったのですが、コンテナー船というイノベーションは、技術の進歩からではなく、貨物船を単なる船としてではなく、運搬用具として見ることから生まれ、重要なことは、港での貨物船の滞留時間を短くすることであり、この平凡なイノベーションが貨物船の生産性を4倍も高め、運搬業の危機を救い、経済史上最高の成長ともいうべき40年間における世界貿易の伸びをもたらせたのです。
初期教育の普及をもたらせたのも、教育に対する理解、教師の育成、教育学の進歩ではなく、最もイノベーションらしからぬイノベーションは、17世紀半ばのチェコの偉大な教育改革者、ヨハン・アモス・コメニウスによる教科書の発明であり、教科書がなければ、いかに優れた教師であっても、1度に1人か2人の生徒しか教えられないのですが、教科書があれば、平凡な教師でも1度に30人から35人の生徒を教えることが出来るのです。
当社の麺學校でも、最初は教科書がなく、プリントのようなもので授業を行なっていたのですが、教科書が完成してから、授業内容のレベルが飛躍的に向上し、授業内容が体系化されるに従い、教科書の完成度が高まり、ノウハウの構築に加速度がつき、次つぎと新しいノウハウが生まれ、1度作成した教科書を一定の間隔で、次つぎとリニューアルし、ある期間が経てば、新しい内容になり、常に改訂版の出版が必要になり、教科書のお蔭で授業内容の進化が速まり、教科書を事前に生徒が読んでくるので、生徒の理解度も高まったのですが、教科書を作るというのは、とてもイノベーションには思えないようなことですが、結果を大きく変え、授業の成果に大きな、良い影響を及ぼし、新規開業者の多くが失敗するのは、マネッジメントの理解不足であるので、マネッジメントの教科書はたいへん意味があるのです。
多くの麺学校の生徒さんたちにとって難しいテーマは盛り付けであり、近々完成する盛り付けの教科書も生徒さんたちには、貴重な財産になり、既に完成している教科書では、デジタル・クッキングについて詳述しているので、無化調でのデジタル・クッキングの理解にはたいへん役立っており、この様にしてみると、われわれが普段イノベーションと思わずに実行していることも立派なイノベーションになっていて、われわれの身の回りにある、普段何気なく接している、何がイノベーションであり、その結果、大きく成果を挙げている内容は何かを理解することが、次のイノベーションを創り出すのに大きく役立ち、われわれ日本人は、イノベーションとは技術革新であり、イノベーションを起こすのは、特殊な人のように思っていますが、イノベーションは不便なところ、不満足から生まれているのです。
コンテナ船の事例では、過去、貨物船が港で荷卸しのために長時間停泊せざるを得ない状態になり、ある貨物船の荷卸しの最中には、次の荷卸しを待っている貨物船が行列になって待っている状態で、これらの貨物船は時間を無駄にしているだけであり、途轍もなく、貴重な資源を浪費していて、お客さまが抱えている不便、不満を取り除くこと、社内外にある不便、不満を解決することがイノベーションに繋がり、その効果は大きく、上記の収穫機を作っていたサイラス・マコーミックは、割賦販売制度を収穫機の販売に取り入れ、ビジネスに大きな成果をもたらせ、いつの時代でも、お客さまが買い易くすることは、需要を創出するためには、欠かせないのです。
「社会的イノベーション」
イノベーションは技術に限ったものではなく、モノである必要さえなく、それどころか、社会に与える影響力において、新聞や保険を初めとする社会的イノベーションに仇敵するイノベーションはなく、割賦販売は、まさに経済そのものを供給主導型から需要主導型へと変質させ、1948年のチェコスロバキアや1959年のキューバのように、共産主義が権力を得て、最初に禁止する経済活動が、割賦販売である理由もここにあり、同様なお金に関するイノベーションとしては、今では当たり前で、誰でも使っているキャッシュ・カード、プリペイド・カード(スイカ等)、お財布携帯、電子マネー等々、数えきれない種類の新しい貨幣が出来、使い始めのころは少し違和感があったのですが、今ではまったく当たり前になり、誰でも普通に使っていて、政府が行なっている補助金政策も、税収確保のための一種のイノベーションであり、今ではごくごく当たり前になっている、給与制度もイノベーションであり、これからもイノベーションを起こし続けていかなければいけない分野で、給与も、その時代、時代のニーズに合った給与制度でなければいけないのです。
18世紀啓蒙主義による社会的イノベーションの1つである近代病院は、いかなる医学上の進歩よりも、医療に対し大きな影響を与え、明治維新までの日本には、病院はなく、病気になれば、町の医者に診て貰い、薬を買って飲むしか方法がなく、明治以降の日本の医療において、病院が果たした役割は限りなく大きく、昔は人生の終わりを迎えるのは、自宅であったのが、現在ではほとんどの人が病院で亡くなり、多様な知識や技術を有する人たちを、共に働かせるための知識としてのマネッジメントもまた、今世紀最大のイノベーションであり、まったく新しい社会、いかなる政治理論や社会理論も準備されていない組織社会を生み出し、明治以前の日本では、会社で誰かと一緒に働くという概念がなく、明治以降、会社組織が出来、人びとの働き方が一変し、経済史によれば、ドイツではじめての蒸気機関車を作ったのはオーガスト・ボルジヒですが、彼は、はるかに重大なイノベーションとして、ギルドや教師、或いは官僚の抵抗を押し切り、今日、ドイツ産業の基盤となっているドイツ特有の工場システムを作り、彼は、広範な裁量権のもとに職場を動かす、敬意を払われる存在としてのマイスター制度や、現場訓練と学校教育を結合させた徒弟制度を作り、今でもドイツは世界屈指のモノ作り大国になっているのは、こうした先輩たちが基礎を作った努力のお蔭であり、今でもその遺産が脈々と引き継がれているのです。
マキャベリの「君主論」(1513)による近代的な政府の概念と、その約60年後の後継者ジャン・ボーダンによる近代国家の概念は、いかなる技術的イノベーションよりも、近代社会に永続的な影響をもたらし、社会的イノベーションとその重要性について最も興味ある例は、近代日本であり、開国以来、日本は、1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、或いは真珠湾の勝利、さらには1970年代と80年代における経済大国化、世界市場における最強の輸出者としての台頭にも関わらず、欧米からは常に低く評価されてきたのですが、その主たる理由、恐らく唯一の理由は、イノベーションとはモノに関するものであり、科学や技術に関するものであるという一般の通念にあり、実際、日本は、イノベーションを行なう国ではなく、模倣する国だと見られてきましたが、これは、科学や技術の分野で、日本が際立ったイノベーションを行なっていないためだったのですが、日本の成功はイノベーションによっていて、日本が開国に踏み切ったのは、征服され、植民地化され、西洋化された、かってのインドや、19世紀の中国の二の舞をしたくなかったからです。
日本は、柔道の精神により、欧米の道具を使って欧米の侵略を食い止め、日本であり続けることを目指し、日本にとっては、社会的イノベーションの方が蒸気機関車や電報よりもはるかに重要であり、しかも、学校や大学、官僚機構、銀行、労使関係のような社会的機関の発展、すなわち社会的イノベーションの方が、蒸気機関車や電報の発明よりもはるかに難しく、ロンドンからリバプールへ列車を引く蒸気機関車は、いかなる応用も修正もなしに、そのまま東京から大阪へ列車を引くことが出来るのですが、社会的機関は、日本的であると同時に、近代的でなければならず、日本人が動かすものでありながら、同時に西洋的かつ技術的な経済に適合するものでなければならないのです。
技術は安いコストで、しかも文化的なリスクを冒すことなく導入できるのですが、社会的機関が発展していくためには、文化的な根を持たなければならないので、日本はおよそ100年前、その資源を社会的イノベーションに集中することとし、技術的イノベーションは模倣し、輸入し、応用するという決断を下し、見事に成功し、この日本の方針は今日でも正しいと言え、創造的模倣戦略こそ、きわめて成功の確率の高い立派な起業家戦略であり、仮に日本が他の国の技術を模倣し、輸入し、応用する以上のことを行なうべく、自ら純粋に技術的イノベーションを行なわなければならなくなっているとしても、日本を過小評価してはならず、そもそも開発研究そのものが、ごく最近の社会的イノベーションであり、日本はこれまで行ってきたように、そのようなイノベーションに長じていて、しかも日本は、起業家としての戦略にも長じているのです。
もともと、日本の食文化ではなかった、うどん蕎麦は勿論、ラーメンまでも、最初は海外から日本にもたらせたのですが、その後、日本でイノベーションを遂げ、日本の食文化として、世界に広めていることが出来ていることこそ、日本の得意技の創造的模倣により起業家戦略であるのです。
まさにイノベーションとは、技術というよりも、経済や社会に関わる用語であり、イノベーションは、J・B・セイが起業家精神を資源の生産力を変えることと規定したのと同じように定義することが出来、或いは、近代経済学者がしばしば言うように、供給に関わる概念よりも需要に関わる概念、「消費者が資源から得られる価値や満足を変えること」と定義することが出来、ドラッカーは日本の明治維新以降の社会的イノベーションについて、たいへん高い評価を下していて、このような見方は、ほとんどの人が行なっていないのですが、ドラッカーは、一般的な日本の理解とは異なる理解を示しているのです。
明治維新以降の日本について、考察してみると、栄光と挫折の繰り返しであることがよく分かり、日本のイノベーションも近代国家になる前半、特に明治維新から大正時代にかけては、非常に成功しているのですが、第2次世界大戦で大敗し、第2次世界大戦後の復興期においては、大成功し、成功の後、ずっと沈滞が続き、日本のイノベーションの歴史を振り返ると、明治の初期の弱小国であった頃は、思い切りリスクを取り、その後、日本が欧米の強国に肩を並べるようになってから、日本は方向を変え、戦争に突入し、第2次世界大戦後の焦土で何もない日本は、ゼロからの再スタートになり、思い切り、リスクを取らなければいけない状態になり、その後、経済は急成長し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われるようになったころから、日本は再びおかしくなり、経済的(国民一人当たりのGDPの伸び)にはこの25年間ずっと停滞しているので、現在の日本において、1番イノベーションが必要な部分は社会的イノベーションであることがよく分かり、そのリーダー・シップを取らなければならないのは、政府であり、われわれ起業家であるのです。
画像は、昨日の高松空港の様子と、帯広での様子で、帯広はまだ冬の真っ只中でした。
講演会では、予定より多くのお客さまにご参加戴き、熱心に聞いて戴きました。
今朝は、ホテルで朝食をとっていると、窓の外ではリスが遊んでいました。
帯広工業大学では、先生からパンに関する研究で多くのものを見せて戴いたのです。
午後2時半発の便で羽田に向かい、東京支店では私のセミナーを聞くために、多くの参加者の方がたがお待ちで、本日は夜8時までセミナーです。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。