本日のテーマは「ビジネスの成功は人間力」です。
昨日でシンガポールのラーメン学校は終了しましたが、今回のラーメン学校ほど、国民性の違いを理解させてくれた学校はなかったのです。
当社のうどん学校、ラーメン学校は世界中から生徒さんが来ているのですが、世界中から来ても、ベトナム人とか台湾人は日本人に近い国民性を持っている場合が多く、白人とか黒人他、東南アジア以外の国の人たちは、古い日本人が持っていた様な礼儀正しさ等は期待出来ないと思っていたのですが、今回のイランからの生徒さんの礼儀正しさには驚いたのです。
あのような礼儀正しさで振る舞われると、こちらまで襟を正しくしたくなり、余計にこの人のためになってあげたいと思うので、国際ビジネスにおいても礼節をわきまえて振る舞うことの大切さを教えてくれたのです。
当然、イラン人がすべてこのような人たちとは思いませんが、それでも日本文化とかけ離れているイランが日本に近いものを持っていたことが不思議で、昨日の学校が終えて別れるまで、お互いに思いやる素晴らしい関係が続いたのです。
最初はそうでなかった他の国からの生徒さんたちも、このイラン人の親子に触発されて、徐々に変化を遂げていったのです。
国内の麺学校でも同じようなことが起きているのですが、誰か一人でも特別に抜きんでた生徒さんがいれば、その生徒さんに触発されて、そのクラスは大きく変わり、今回のラーメン学校もそのようなラーメン学校で、素晴らしい学校になったのです。
そのような、情熱のある熱心な生徒さんが含まれていると、われわれも熱心な生徒さんのために余計に熱を込めて取り組むので、相乗効果が余計に上がるのです。
一昨日のイラン料理のレストランは、食事の途中で専属ダンサーがベリーダンスを踊るような高級なイラン料理の店で、イラン人の親子からイラン料理について詳しく説明を受け、少しはイラン料理について分かったのですが、レストランの料金は当然、当社で支払う予定であったのですが、イラン人の生徒さん親子が先に払ってしまっていたのです。
また、昨日は授業の途中でイラン人親子が私へのプレゼントだということで、ペルシャじゅうたんまで買ってきてくれたのです。
われわれがラーメン学校の中で教えたことがよほど嬉しかったらしく、たいへんな感謝をされたのです。
ビジネスはお互いを尊重し合うことにより、相手へ貢献したいと気持ちが増し、お互いにとってさらに素晴らしいビジネスの成果が得られるのです。
われわれは常に目先の損得を考えずにビジネスを行ない、麺学校でも常に生徒さんのことを真剣に考えて、出し惜しみせずに何でも与えているのですが、多くの場合は、われわれ講師陣が与えるギフトを受け取ってくれないのです。
しかし、今回のイラン人の生徒さんたちは、われわれの与えたギフトを熱心に吸収し、お返しにわれわれにも素晴らしいギフトを戴いたのです。
われわれはつねに麺学校の生徒さんに対しても、製麺機のユーザーさまに対しても、同じような気持ちで接しているので、われわれのことを理解して貰えるような、価値感を共有出来るお客さまとは、深い信頼関係で結ばれるのですが、残念ながら、現在は価値感を共有出来る人たちの数が少なくなってきているような気がします。
昨日は、イラン人の息子さんと話していると、イランの人口は8千万人で、少子高齢化が進み、若い人の数が少なくなり、若い人が働かなくなっていて、これは世界的な現象であると言っていたのです。
そのために貧しい若い人が増え、結婚出来ない人が増え、結婚は誰でも出来るものではなく、ぜいたく品にもなっているのです。
私の若いころは、金があってもなくても結婚は当たり前で、結婚当時はお金がなくても、2人で頑張って家庭を作っていくのが普通であったのです。
この点についても、われわれの時代の人たちが若い人たちより、ポジテイブな価値感を持ち、若い人たちがネガテイブな価値感を持っているのです。
私は麺学校を開校し、常に生徒さんたちと触れているので、余計に敏感なのかも知れませんが、生徒さんたちと接していると時代の大きな変化を感じるのです。
そして、国内だけでなく、常にある程度の期間、海外の生徒さんたちと濃密な関係になっているので、国内の変化、海外の変化に余計に敏感になっているのかも知れないのです。
現在は、本社でうどん学校を開催中ですが、昨日入った連絡で、海外からの生徒さんの1人が講師に従わず、授業の進行の妨げになっているという情報が入ったのです。
昨日のうちにメールで指示したのは、その生徒さんの入学に至るまでお世話した担当者からの情報と、今朝から藤澤常務と山本常務に生徒さんとの面談をして貰い、問題を解決することを依頼したのです。
松原先生も私と一緒にシンガポールのラーメン学校へ出張中で、本社のうどん学校は若い講師だけだったので、難しい生徒さんの対応が充分に出来ていなかったようです。
しかし、難しい生徒さんほど、講師を鍛えてくれるので、このような生徒さん1人ひとりの問題を解決しながら、講師が育っていくのです。
われわれは常に生徒さん1人ひとりの人生の成功を祈って、麺学校を行ない、また製麺機の販売を行なっているので、当社の価値感を理解して貰いながら、生徒さんたち、お客さま方に成功して貰わなければいけないので、われわれは非常に難しい道を歩んでいるのです。
多分、ライバルにとっても一番やり難い、真似をし難い方法を行ない、時間が多少かかっても、最も苦しい方法が、一番長続き出来る方法であると思っているのです。
日本も過去の成功の遺産の上で、現在は生き続けることが出来ているのですが、過去の遺産はいずれなくなるので、苦しい日々の奮闘を通じて、未来のための遺産作りを行なっていかねばならないのです。
本日も当社の価値感を掲げ続けます。
1. 顧客に深くフオーカスし、絶えざる奮闘精神で、価値ある奮闘を長期にわたって続ける(顧客との深いコミュニケーション)
2. 自己批判(内省、フィードバック、自己とのコミュニケーション)
3. オープンな姿勢と進取の精神(アライアンス、イノベーション)
4. 効率の追求(利益、コスト)
丁度1年前の昨年2月21日から始まった、半年間以上に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びの最終のまとめに取り組んでいきます。
◆野心的な目標
この戦略は、必ずしも大事業になることを目指す必要はないのですが、つねに市場の支配を目指すので、ここで大切なことは、トップになる事は勿論、市場を支配することであり、われわれの身近な、誰でも知っている事例で言えば、市場を支配している事例は、ほとんど皆無に近いのです。
オートバイでは、ホンダが世界でトップですが、それでも大型のオートバイ市場では、ハーレー・ダビッドソンの1人勝ちで、こうしてみると、市場を支配することは、いかにたいへんかと言うことが分かるのと同時に、そのビジネスを始める初期の段階で、市場を支配することを、ビジネスの目的に加えるかどうかは、非常に重要なことであり、これでビジネスの勝敗が決まるのです。
ミネソタ州セントポールの3Mは、おそらく徹底的に検討したうえでの方針として、大事業になるようなイノベーションには取り組まず、保健衛生用品のメーカーであるジョンソン・エンド・ジョンソンも同じであり、両社は、大事業ではなく、中くらいの事業に発展するようなイノベーションを行ってきているのですが、市場の支配は目指しているのです。
以上の様に、十分に規模の大きい大企業であっても、支配出来る市場にしか参入して来ないのは、マネッジメントの基本を忠実に守っていて、この戦略は企業だけのものではなく、社会的機関も使うことができ、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトが、1809年にベルリン大学を創設したときにとった戦略がこれで、ナポレオンに負けたあとのプロイセンは、国家として崩壊寸前の状態にあり、すでに政治的、軍事的、財政的には破綻していて、ヒトラー敗北後の1945年頃のドイツと同じだったのですが、彼は、当時最大の大学の3、4倍の規模をもつ、西洋史上最大の大学をつくり、最高の哲学者ゲオルク・W・F・ヘーゲルをはじめ、あらゆる分野にわたって、最高の学者を招き、ナポレオン戦争による名門大学の閉鎖に伴い、一流の学者さえ乞食になりかねない時代に、それまでの報酬の10倍を払ったのも、市場の支配と言うことを前提に戦略を立てれば、当然のことであったのです。
そのおよそ100年後の今世紀初め、近くに大都市はおろか、医学校もないというミネソタ州の片田舎ロチェスターの町で、2人の兄弟の外科医が、新しい、異端的ともいうべき、一流の専門医がチームをつくり、一流の治療を行うという考えのもとに、医療センターをつくり、今日、科学的管理の父とされているフレデリック・W・テーラーは、メイヨー兄弟に会ったことはなかったのですが、彼は、有名な1911年の議会証言において、メイヨー・クリニックの名を、唯一の完全にして、かつ成功している科学的管理の例として挙げ、この無名の2人の外科医もまた、初めからその世界におけるリーダーの地位を目指し、あらゆる分野の一流の専門医、とくに才能のある若手の医師を集め、高額の治療費を払える患者を集めたのです。
そのさらに25年後、マーチ・オブ・ダイムズが、小児麻痺研究のために同じ戦略をとり、1つ1つ知見を積み上げるのではなく、この不可解な病気を一気に克服することを目指し、研究計画の一部を各地の研究機関に委託するという、前例のないオープンな研究所をつくり、この様に、市場の支配とイノベーションは切っても切り離せない条件があることがよく分かり、マーチ・オブ・ダイムズは、政府の研究開発プロジェクト、原子爆弾やレーダー、近接電波信管の開発計画、さらにはその15年後の有人月着陸飛行計画のモデルとなったのです。
これらのすベてが、「総力による攻撃」の戦略を採用し、これらの例は、この戦略には野心的な目標がなければ失敗することを示していて、この戦略は、つねに新しい産業や市場そのものを創造することを目指し、少なくともそれは、メイヨー・クリニックやマーチ・オブ・ダイムズのように、新しいシステムを生み出すことを目指すのです。
デュポンは1920年代の半ばに、化学者カロザーズを迎え入れたとき、新しい化学産業をつくると宣言はしなかったのですが、デュポンの内部文書によれば、当時のトップ・マネジメントが新しい産業を生み出そうとしていたことは明らかであり、彼らはカロザーズの研究が簡単に成功するとは思っていなかったが、成功した暁には、単なる新製品や製品ラインを超えたものをつくり出すつもりでいたのです。
以上の例からも、以下の例からも、枠を大きくし、社会を変えることがイノベーションによる成功と密接に繋がっていて、「未来のオフィス」という言葉をつくったのは、ワング博士ではないのですが、彼はその最初の広告のなかで、新しいオフィス環境やオフィス労働を説いていたのです。
デュポンもラングも初めから、自らがつくり出した産業において、支配的な地位を得ることを目指していたのですが、この戦略の意味するところを最もよく表している例は、むしろ企業ではなく、フンボルトのベルリン大学であり、フンボルトが実際に関心をもっていたのは、大学それ自体ではなく、彼にとって大学は、18世紀の絶対君主制でもなければ、ブルジョアが支配するフランス革命の共和制でもない、新しい政治体制をつくり出すための手段であり、彼が目指したのは、能力によってのみ採用され、昇進する完全に中立的な職業公務員と、同じように完全に中立的な職業軍人が、それぞれきわめて限定された領域において、独立性を維持するというバランスから成り立つ政治体制だったのです。
今日われわれがテクノクラートと名づけるそれらの人たちは、法の支配のもとにおかれ、彼らは、それぞれ限定された領域のなかでは完全に独立した存在として機能し、そのとき、ブルジョアには2つの自由が保証され、1つが精神的、文化的自由であり、1つが経済的自由であり、すでにフンボルトは、この考えを、その著『政府の有効性の限界』において明らかにしていたのです。
1809年当時、君主制がナポレオンに屈したあとのプロイセンでは、フンボルトの考えにとって障害となっていた勢力、皇帝、貴族、軍が無力化していて、彼はその機会をとらえ、自らの政治理念を実現するための核として、ベルリン大学を創設し、事実、ベルリン大学は、19世紀のドイツが「法治国家」と呼んだ独特の政治体制をもたらし、政治と軍の領域では、強大な高級官僚と参謀将校からなる自律的なエリート集団が力をもち、文化の領域では、教育ある人たちからなる同じく自律的なエリート集団が自治的な大学を中心にリベラルな文化を育て、かつ経済の領域では、規制から自由な自律的経済活動が実現されたのです。
そのような体制のもとにプロイセンは、ドイツにおいてまず初めに知的、文化的な面で優位に立ち、間もなく政治的、経済的に優位に立ち、さらには、ヨーロッパ大陸でリーダーシップを握り、やがて大陸の外のイギリスやアメリカからの賞賛を得るにいたり、実に1890年前後まで、プロイセンの君臨するドイツはイギリスとアメリカにとって1つの文化的、知的モデルとなり、これこそまさに、フンボルトが敗北と絶望の時代のなかで構想し、目指したもので、事実彼は、その目指すものをベルリン大学の設立趣意書と憲章のなかで明らかにしていたのです。
国造りの基礎は、教育であり、明治維新をアジアで唯一成功裏に乗り越えることが出来たのは、江戸末期に各地にあった藩校の存在を抜きにして語ることが出来ず、企業も同じく、教育を外して、企業作りは考えることが出来なく、まず、人を選ぶことと、継続した教育、進化し続ける教育は欠かすことが出来ないのです。
画像は、昨日のラーメン学校最終日の生徒さんたちの作品事例で、日本ほどさまざまな食材がないなかで、いろんな盛り付けの試みを行ないました。
また、イランの生徒さんからは、立派な絨毯を戴いたのです。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。