先ずは、お知らせが2件です。
来週10月26日(月)~28日(水)の3日間、ドリームスタジオ大阪で、40周年記念イベントがあり、各種セミナー、製麺講習が行なわれます。
(https://www.yamatomfg.com/company/dream-studio/dream-studio-osaka/)
再来週11月3日(火)~5日(木)の3日間、ドリームスタジオ名古屋で、40周年記念イベントがあり、各種セミナー、製麺講習等が行なわれます。
(https://www.yamatomfg.com/company/dream-studio/dream-studio-nagoya/)
本日のテーマは「オーデイマ・ピゲの時計師魂」です。
昨日までの東京支店でのラーメン学校最終日の上京の折に買った雑誌「PEN」の中に、複雑で高価な時計として有名な、スイスのオーデイマ・ピゲの面白い特集がありました。
オーデマ・ピゲ(は、スイスの時計・宝飾品メーカーで、パテック・フィリップ、ヴァシュロン・コンスタンタンとともに世界3大高級時計メーカーの1つで、本社はジュネーブから北に60kmの、冬になると降雪で完全に孤立するジュー渓谷のル・ブラッシュにあり、1875年、ジュール=ルイ・オドマール(1851年-1918年)とエドワール=オーギュスト・ピゲ(1853年-1919年)によって高級時計ムーブメント製作会社として設立し、その後自社ブランドの時計の製作を始め、トゥールビヨン、ムーンフェイズなど複雑な機構を備えた高級時計メーカーとして知られるようになり、代表的モデルとしてロイヤル・オークがあり、その他楕円形ケースのミレネリーなどが存在する。
スイスの高級時計メーカーのほとんどは、1969年末に発表されたクオーツ時計が瞬く間に世界を席巻し、機械式をはるかに超える精度を実現し、倒産や廃業が相次ぎ、1974年~84年の間に従業員の3分の2を失なったのです。
この危機的な状況に立ち向かったのが、オーデイマ・ピゲの3人の時計師で、彼らが苦労して作り上げたのが、1978年に完成した厚さ3.95mmの世界最薄自動巻きパーペチュアル・カレンダーを搭載した腕時計であったのです。
クオーツが全盛であった当時はこうした複雑時計を製作できるブランドは稀有であり、先行きを危ぶまれていたのですが、機械式時計特有のクラシカルなダイヤルデザインが得難い魅力になり、その後15年間で、7300本製作して、大成功を収めたのです。
これがオーデイマ・ピゲの経営を支えただけでなく、同社の複雑時計をさらに発展させていく礎になったのです。
ジュウ渓谷は山麓の静かな町で、「ウオッチ・バレー」の別名でも知られ、超複雑時計の聖地でもあり、ここに立地するブランドの中でも、オーデイマ・ピゲは、ペーパチュアル・カレンダー、ミニッツ・リピーター、クロノグラフなどの複雑時計で突出した実績を有するだけでなく、現在でも創業家が経営に携わる、スイスでも稀有なブランドで、本社は一度もこの地を動いたことがないのです。
精巧で極まりない機構を生み出す技術力と、それを時計として魅力的な形に結実していく美意識は、こうした揺るぎない家族経営の中で連綿と継承され、磨き上げられてきた「DNA」なのです。(ペン、11月1日号付録より)
以上の内容は、エンジニア魂を持つ私の心を揺さぶり、クオーツで大成功した日本の時計メーカーを機能的ベネフィットの世界から、感情的ベネフィットの世界に価値感が変わるとともに、トップの座から引きずり降ろしてしまったのです。
クオーツで大成功した日本の時計メーカーは、クオーツのコモデイテイ化と共に、その存在感を失ってきて、高級統計はスイスメーカーの独壇場になっているのは、皮肉な現状だと言えるのです。
最近、このような高級時計を持つ人たちが増えているのは、身に付ける物を自身の価値感の表現だと感じる人が増えてきているのです。
過去、日本のサラリーマンは、同じようなドブネズミ色の背広を着て、独自性を打ち出さないのが、サラリーマンの特徴のように言われてきたのですが、最近は徐々に変化が現れ、私の周りにも高級なスイスの時計を持っている人を見かけるのです。
こうしてみると、ビジネスは事業家の持っている価値感とお客さまの持っている価値感の交差点以外の何ものでもないことがよく分かるのです。
更に、それらを常に研究し、普段の経営に活かす戦略決定の大切さが改めてよく分かるのです。
昨日は朝の便で羽田から高松に移動し、久しぶりに金比羅さんにお参りし、裏参道から登りましたが、10月10日の金毘羅宮の秋の大祭の直後で、参拝客は比較的に少なかったのですが、天候に恵まれ、裏参道の大木の神木が鬱蒼と茂った参道を歩くと、金比羅宮が鎮座する像頭山の神々しさを感じると共に、秋の晴天の清々しさの中で、素晴らしい心のリフレッシュになるのです。
その後、本社により、開発と企画部門との打合せを行ないましたが、直観力を大切にする大切さを理解させられるようなことが、何度かありました。
本年2月21日から始まった、173日間に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びを終え、最終のまとめに取り組んでいきます。
◆女性の意識
アメリカの女性運動家は今日、1930年代と40年代を、女性の社会的役割を認めなかった最悪の暗黒時代として位置づけているのですが、事実に照らしてみるならば、これほど間違った見方はなく、1930年代と40年代こそ、まさに存在感のある女性の花形たちが活躍した時代であり、アメリカの良心、アメリカの道義の代弁者として、アメリカ史上、いかなる男性をも超えた大統領夫人、エレノア・ルーズヴェルトがいて、その友人フランセス・パーキンスは、初の女性閣僚として労働長官となり、ルーズヴェルト政権の最も有能かつ強力な閣僚となり、アンナ・ローゼンバーグは、アメリカ最大の小売店R・H・メイシーの人事担当副社長として、アメリカの大企業初の女性役員となり、朝鮮戦争のときには、兵員担当の国防次官補として将軍たちの上司となり、大学の学長にも、全米に知られた大勢の有力な女性がいて、一流の作家、クレア・ブース・ルースやリリアン・ヘルマンがいたのですが、とくに前者は政治家としても名をあげ、コネチカット州選出の下院議員、後に駐イタリア大使を務めました。
この時代、医学上の最も大きな業績を残したのも女性で、ヘレン・タウシッグは、チアノーゼの幼児の手術を行い、史上初の心臓手術に成功し、やがて世界中の幼児の命を救うことになる心臓移植や、バイパス手術へと続く心臓手術の時代をもたらし、さらには、ラジオを通じて数百万人の心に働きかけたマリアン・アンダーソンがいて、アメリカ中の茶の間に入り込むことのできた黒人は、彼女が登場する前には1人もいなかっただけでなく、彼女の後には、マーチン・ルーサー・キングが1人いるだけで、以上のように、名のある女性は計り知れなく多く、彼女たちはみな、自らの業績と名声、重要さを自覚する誇り高い女性だったのですが、彼女たちは、自らを「女性の代表」とは考えず、自らを女性と考えるよりも、まず人間として考えていて、女性の代表ではなく、むしろ例外として考えていたのです。
どのように変化が起こり、それがなぜであったかを説明するのは、後世の歴史家に任せなければならないのですが、1970年以降、偉大な女性の先駆者たちは、もはや特別視されるべき存在ではなくなり、今日では、働かない女性や、男のものとされていた仕事をしていない女性のほうが特殊であって、例外とされるのです。
いくつかの企業、とくにシティバンクが、この変化をイノベーションの機会としてとらえたのですが、すでに女性が専門職や経営管理者として認められていた百貨店、広告代理店、雑誌社、出版社は、変化に気づかず、今日、それらの企業では、30年前や40年前よりも、女性の専門職や経営管理者が減っているくらいですが、これに対し、シティバンクは極端な男性社会だったので、変化を認識できたのも、そのためだったかもしれず、シティバンクは、この女性の意識の変化を機会としてとらえ、とりわけ野心的な有能な女性を雇い入れて、活躍させることに成功し、しかもシティバンクは、キャリアウーマンの昔からの就職先だった企業と競争することなしに、彼女たちを雇うことができたのです。
当社も多くの女性が活躍しており、スタッフのうち、約55%が女性であり、女性の比率が多い会社ですが、女性が活躍を始めてから、会社が大きく変わり、創業以来、製麺機メーカーだったので、それまでは、まったくの男性社会であったのですが、女性たちがそれまで男性たちが携わっていて、成果が上がらなかった仕事を成果の上がる仕事に変えていったのは、特に営業関係と麺學校で、今後は、他の部門で女性たちの活躍が見込まれていて、男性たちがやっていて、成果が上がらなくなった部門を女性たちに任せることは、これからの日本では欠かせないことであり、世界中で、若い男性の中に草食男子化が進み、女性は肉食女子化が進んでいることを危惧されていますが、今は男性と女性と分ける必要のない時代に入り、少なくとも、ビジネスにおいては、男女の性差別は不要な時代になったのではと思います。
◆アメリカの中流階級化
このように、認識の変化をイノベーションの機会としてとらえる者も、長期にわたって独占的に行動することができ、1950年代の初めというかなり昔のケースにも、認識の変化を利用したイノベーションの例があり、1950年頃、アメリカ人の圧倒的多数が所得や職業のいかんにかかわらず、自らを中流階級として考えるようになり、明らかにアメリカ人は、自らの社会的地位についての認識を変化させたのです。
中流階級への意識変化は何を意味したか。
ある広告代理店の役員ウィリアム・ペントン(後にコネチカット州選出の上院議員)は、「中流階級」とは何を意味するかを考え、その明快な答えは、中流階級とは、労働者階級と異なり、自分の子供が学校の成績次第で出世していけると信じる人たちのことだったので、そこでベントンは、倒産寸前だったエンサイクロペディア・ブリタニカを買い取り、そして主として高校の先生に「中流のご家庭のお子さんの勉強には、ブリタニカの百科事典が必要です」と言わせ、一家の中から、初めて子供を高校へ行かせるようになった親たちに、百科事典を売り込み、ブリタニカを3年で立ち直らせ、10年後には日本でも同じ売り方で成功したのです。
予期せぬ成功や失敗は、しばしば認識の変化を示す兆候であり、サンダーバードはエドセルの灰から生まれ、フォードは、エドセルの失敗の原因を調べて、認識の変化を発見し、わずか数年前には所得階層によって分かれていた乗用車市場が、今やライフスタイルによって分かれていたのを発見したのです。
認識の変化が起こっても、実体は変化しないで、意味が変化し、「半分入っている」から[半分空である]に変化し、自らを労働者階級として一生身分が変わらないとする見方から、中流階級として社会的地位や経済的機会を、自ら変えることのできる身分にあるとする見方へと変化し、そのような認識の変化は速く、アメリカ人の過半が、自らを労働者階級ではなく、中流階級として考えるようになるには10年とかからなかったのです。
経済が変化をもたらすのではなく、まったくのところ、経済は関係さえしないかもしれず、イギリスでは、所得の配分はアメリカよりも平等であるのですが、3分の2がいわゆる労働者階級を上回る所得を得、2分の1近くが中流階級の下層を上回る所得を得ているにもかかわらず、イギリス人の70パーセントは、依然として自らを労働者階級と見ているのです。
日本においても、今は人びとの認識が大きく変化する時代であるので、認識の変化を捉え、イノベーションの機会にすることにより、自分たちのビジネスに大きな成果をもたらすことが出来るのですが、簡単ではなく、トップがシッカリと時間をかけ、深い思考で取り組むべき大切な項目であるのです。
「実体よりも認識」
コップに「半分入っている」か「半分空である」かは、実体ではなく認識が決定し、体験が決定し、アメリカの黒人が「半分空である」と感じるのは、アメリカ社会の現状よりも、過去数世紀にわたる癒しがたい傷によるものであり、イギリス人の過半が自らを労働者階級と見るのは、19世紀における国教徒用チャーチと非国教徒用チャペルの断層という遺産によるところが大きく、アメリカ人の健康ノイローゼは、健康にかかる指標よりも、若さへの信仰などアメリカ人特有の価値観によるところが大きいのです。
社会学者や経済学者が、それらの認識の変化を説明できるか否かは関係なく、認識の変化はすでに事実であり、多くの場合、定量化することはできないだけでなく、定量化できたとしても、その頃には、イノベーションの機会とするには間に合わないのですが、それは理解できないものでも、知覚でさないものでもなく、きわめて具体的であり、明らかにし、確かめることができ、そして何よりも、イノベーションの機会として利用することができるのです。
但し、以上のことも常に変化に対し、意識を持って対応していないと、変化を捉えることが出来ないので、殆どの人たちは、変化に気づかず、また気づいたとしても、イノベーションの機会として活用出来ていないのですが、これからの日本において、認識の変化に対する意識を高めることが、外せないのです。
画像は、一昨日のラーメン学校の生徒さんの修正後の作品で、鶏白湯ラーメンです。
鶏白湯の場合は、スープの色がきれいなので、盛付の周囲にスープをわざと見せるようにするときれいです。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。