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ラーメン・うどん・そば・パスタ開業で成功店に!|「イノベーションと起業家精神(上)」「◆傲慢への挑戦」

海外(ボストン)でのラーメン店開業に向けて
昨日から、新しい週が始まり、今週、来週は、出張が少なく、主に本社でいて、会議、打ち合わせ、勉強会等です。

感動の2日間の経営講義が終わったのですが、今回の経営講義には、アメリカのボストンから、昨年ラーメン学校を卒業した広本さんも参加し、熱心に質問を繰り返していました。

もともとは、ミュージシャンとして米国に渡ったのですが、米国が気に入り、米国に残るために始めたレストラン・ビジネスを皮切りに、現在はスーパー・マーケットの経営を行なっています。

その傍ら、高校生に日本文化を教えている先生でもあるのです。

たいへんユニークな方で、麺學校の卒業生の中でもユニークな存在であり、既にボストンのスーパー・マーケットでは、ランチ時間に、ラーメン学校で学んだ方法で、ハーフ・ラーメンを作り、販売しているのがたいへんな人気で、毎日、売り切れになるそうです。

当然、無添加、無化調でラーメンを作っているのですが、友人とかお客さまたちは最初、無添加、無化調では美味しくないはずだと言っていたそうですが、広本さんのラーメンを食べて驚いたそうです。

無化調で、こんなに美味しいラーメンが出来ることに、皆さん、たいへん驚いたそうです。

そこで、次に、同じボストン市内で、無化調のどこにもない、ラーメン店の開業を目指しているのです。

この様に、熱い志を持ち、大和魂を背負った、素晴らしい人たちが、世界中に美味しい日本の麺文化を広めてくれることは、私の本望です。

昨日は、広本さんが本社を尋ねてきて、昼食の時間は、一緒にたいへん楽しい時間を過ごしました。

本日のイノベーションと起業家精神では、フォルクスワーゲンを取り上げています。

フォルクスワーゲンも私が注目している企業のうちの一つで、世界最強と言われているトヨタ自動車と互角に戦っている自動車メーカーであり、デザイナーの私が見ても、飽きのこないデザインは秀逸であると思います。

自動車の本質を日本メーカーとは異なった、観点からとらえていて、大量生産であるにも関わらず、商品それぞれにたいへん強い個性と商品力を持たせています。

私のようなエンジニアであり、デザイナーであり、企業経営者の立場でみても、フォルクスワーゲンの車作りと戦略は素晴らしいと思います。

自動車産業自体は巨大な産業ですが、われわれのビジネスと比較すると、一世界から、二世代先に進んでいて、グローバル化も早く、グローバル化に乗り遅れなかった企業だけが生き残れている、われわれの先生のようなビジネスです。

自動車産業の中にある成功した会社の戦略を深く研究することによって、われわれのこれからの行く先が見えてくるのです。

自動車産業においても、その当時、たいへん強かった企業が、今も隆々として成功しているのではなく、むしろ、最後発であったり、一時は苦境に陥った、フォルクスワーゲンのような企業が世界をけん引しているのです。

従って、上手くいっている時も、上手くいっていない時も常に褌を緩めずに、真剣勝負で、生き抜いていくことが大切なのです。

得意な時、物事がうまく行っている時、あるいは絶頂の時に、淡々と振る舞い、決して奢らず、常に謙虚に、冷静沈着に行動することが、『得意淡然(トクイタンゼン)』であり、反対に失意の時、物事がうまく行っていない時、逆風に逆らって向かっている時、あるいはどん底の時に、悠然と構え、何事にも動ぜず、ゆったりと落ち着いて行動することが、『失意泰然(シツイタイゼン)』なのです。

長い人生の中では、この『得意と失意』が必ず交互にやって来るのです。

われわれは常に世の中で試され、磨かれ続けているのです。

今日、3月24日(火)には、東京支店では新規開業セミナーを開催し、熱血講師の藤澤常務が担当します。
https://www.yamatomfg.com/company/dream-studio/dream-studio-tokyo/

新規に開業を志している方がたへ、自分にとって麺専門店を開業することが、正しい人生であるかどうかの素晴らしい判断材料になり、方法を誤らないための指標になります。

本日も、ドラッカー選書「イノベーションと起業家精神(上)」(ダイアモンド社)に基づき、イノベーションについて、深くドラッカーから学んでいきます。

ぜひ、一緒にイノベーションと起業家精神を磨いていきます。

◆傲慢への挑戦

産業構造の変化を利用するイノベーションは、その産業が一つ、あるいは少数の生産者や供給者によって支配されているとき、効果が大きいのです。

長い間成功をおさめ、挑戦を受けたことのない支配的な地位の生産者や供給者は、傲慢になりがちであり、新規参入者が現れても、取るに足らぬ存在、素人にすぎないと見て、その新規参入者のシェアが増大を続けても、対策を講じることができないのです。

AT&Tにしても、長距離通話割引業者やPBXメーカーに対する対応を取りはじめたのは、それらか出現して10年後だったのです。

タイレノールやダトリールなどいわゆる「非ピリン系アスピリン」が現れたとき、アメリカのアスピリン・メーカーの対応も緩慢だった。

ここでもイノベーションを行なった者たちは、市場の急激な成長によって産業構造の変化が起ころうとしていることを知り、そこにイノベーションの機会を見出していた。

当時、アスピリンをつくっていた大製薬会社が「非ピリン系アスピリン」を開発できない理由はなく、すでにアスピリンの限界と危険は周知のことであり、それを指摘する文献もたくさん出ていたのにもかかわらず、5年から8年もの間、新規参入者は市場を独占することができたのです。

アメリカの郵便も、長い間、新規参入者に利益の大きな分野を奪われることに対し、抵抗できなかったのです。

初めにユナイテッド・パーセル・サービスが利益の大きな小包に進出し、次いでエミリ・エアフライトとフェデラル・エキスプレスが、さらに利益の大きな速達や書留に進出し、郵便の地位を危うくしたものは、市場の急激な成長で、成長市場の軽視が、外部からのイノベーションを招き入れたのです。

産業構造の変化が起こっているとき、リーダー的な生産者や供給者は、必ずといってよいほど、市場のなかでも成長しつつある分野のほうを軽く見て、急速に陳腐化し、機能しなくなりつつある仕事の仕方にしがみづくのですが、それまで通用していた市場へのアプローチや組織や見方が正しいものでありつづけることはほとんどないのです。

したがって、イノベーションを起こした者は、気付かずに放っておかれ、昔からの企業は、古い市場において、古い方法で一応の満足すべき成果をあげていて、外部からの新しい挑戦に注意を払わず、大目に見るか、まったく無視するのです。

◆単純なものが成功する

産業構造の変化をとらえるイノベーションが成功するためには、1つだけ重要な条件があり、単純でなければならないということであり、複雑なものはうまくいかないのです。

ここに一つの例があり、私の知るかぎり、最も賢明な企業戦略でありながら、惨敗した例です。

1960年前後に起こった自動車市場のグローバル化の引き金を引いたのは、フォルクスワーゲンで、ビートル・モデルは、50年前のT型フォード以来、はじめてのグローバル車だったのです。

アメリカでも、ドイツと同じように、あらゆるところで見ることができ、タンザニアでも、ソロモン諸島と同じように人気があったのですが、フォルクスワーゲンは、賢明でありすぎたために、自らがもたらしたイノベーションの機会をものにすることができなかったのです。

世界市場に進出して10年後の1970年頃、ビートルはヨーロッパで飽きられはじめていたのですが、ドイツ本国に次ぐ大きな市場だったアメリカでは、まだかなりよく売れていて、3番目に大きな市場だったブラジルでは、さらに大きな成長の余地が残っていたので、新しい戦略が必要だったのです。

そこでフォルクスワーゲンは、ビートルの後継車の生産には、ドイツ工場をあてることにし、アメリカ市場での需要に対しては、ブラジル工場をあてることにしたのです。

フォルクスワーゲン・ド・ブラジルは、成長を続けるブラジル自動車市場において、トップの地位を10年間は享受できるだけの生産能力の拡大を行うことになりました。

そのうえフォルクスワーゲンは、アメリカのユーザーにとって魅力の一つだった「ドイツの品質」を保証するため、エンジンやトランスミッションなどの重要な部品はドイツ工場で生産し、最終組み立てをアメリカ工場で行うことにしたのです。

これこそ世界各地の市場のニーズに応え、世界各地で部品を生産し、世界各地で組み立てを行うという世界初の真のグローバル戦略というべきものであり、もし実現すれば、正しい企業戦略、しかも革新的な戦略となっていたはずでした。

だがこの戦略は、主として「アメリカでの組み立ては、雇用の輸出であるから認められない」とするドイツの労働組合によってつぶされ、アメリカのディーラーも、重要な部品はドイツ製であるとしても、それ以外の部品がブラジル製の車には懐疑的であり、フォルクスワーゲンは、その賢い戦略を諦めざるをえなかったのです。

その結果、フォルクスワーゲンは、第二の市場たったアメリカを失い、そもそも、イランのシャーの失脚を契機とする第二次石油ショック後の小型車ブームのとき、アメリカの小型車市場を手に入れるはずだったのは、日本車ではなくフォルクスワーゲンだったのですが当時、フォルクスワーゲンには売るべき車がなく、しかもその数年後、ブラジルで深刻な不況により自動車の売り上げが落ちたとき、フォルクスワーゲン・ド・ブラジルが苦境に陥り、増設した生産能力のための輸出先がなかったのです。

この頭のよい戦略が失敗し、フォルクスワーゲンの将来までおかしくすることになった具体的な原因は、ここでは二の次の問題ですが、フォルクスワーゲン物語の教訓は、産業構造の変化にもとづくイノベーションは、複雑すぎると失敗するということにあり、成功のチャンスは、単純で具体的なイノベーションにこそあるのです。

フォルクスワーゲンのビートルは、第二次世界大戦後、同じモデルで、世界中で良く売れたベストセラーであり、ロングセラーである、オートバイのカブのようなモデルでした。

主力モデルである「タイプ1」は、その耐久性と経済性、そして優れたアフターサービス体制で世界の市場から圧倒的な支持を得ることに成功し、「ビートル」の愛称で広く親しまれたこの古風な流線型車は、アメリカをはじめ全世界に大量輸出され、貴重な外貨を獲得して西ドイツの戦後復興に貢献したのです。

2003年のメキシコ工場における生産終了時点までに生産された台数は2,152万台以上に上り、モデルチェンジなしでの1車種としては未曾有の量産記録となっていて、おそらく四輪自動車で、今後もこれを破る記録は現れないと言われているのです。

しかし、最初に本国のドイツで陰りが出て、次にアメリカ市場では思わぬライバルとなった日本車に負け、そのうち、世界中で生産、販売が徐々にストップしたのです。

1965年には、従来ダイムラー・ベンツ傘下にあり、今日のアウディAGの前身であるアウトウニオン社を生産体制強化のために買収したのです。

しかし、ビートルの余りに大きすぎた成功は、後継モデル開発の妨げともなり、「フォルクスワーゲンすなわちビートル」というイメージの強さ、空冷リア・エンジン方式というレイアウトが、1960年代に陳腐化したにも関わらず、根本的変更が遅れたことなどが災いし、新型車を世に問うても決定打を欠くという低迷期が、1960年代後半以降長く続いたのです。

フォルクスワーゲンは、傘下としたアウトウニオン(現アウディ)の前輪駆動技術をも応用して、1970年以降の新型車について前輪駆動化への動きを進め、1974年に至り、スペース効率に優れた前輪駆動のハッチバック車ゴルフを開発し、その機能性が市場に受け容れられてベストセラーとなったのです。

ようやくビートルを代替できるモデルを得、以来、その延長線上に各種の機能的な小型車を多数送り出し、ヨーロッパを代表する大衆車メーカーとしての地位を確立したのです。

1980年代以降は、それ以前の南米などへの工場展開のみならず、既存メーカーの買収をも進めるようになり、1984年には、上海汽車との提携で中国市場へ参入、また1991年にはチェコの老舗メーカーであるシュコダ、1996年にはかつてフィアット系だったスペインのセアトを傘下に入れ、東欧・南欧での拠点をも確保したのです。

以上のように、ビートルのもともとのデザインが、ヒットラーの国民車の発想がベースになっているので、コンパクトで、室内のスペース効率がよく、エンジンを始め、すべてのスペックのレベルが高かった、現代的な日本車に比べると、1~2世代前の車であったのです。

大市場であった、アメリカでも徐々に日本車に駆逐され、完全撤退をせざるを得なくなったのです。

その後、アメリカ市場は、日本車の市場になってしまったのです。

その代わり上記のように、現在、世界最大の市場になっている中国への参入は、日本車よりも早い段階で参入し、外国車では、トップ・シェアを誇っているのです。

要するに、フォルクスワーゲンは、長くビートルが売れ続けていたので、新しい車の開発に遅れ、安心領域に止まっていたのです。

しかし、現在では、フオルクスワーゲンは世界市場において、トヨタとトップ争いをしており、車の魅力、高級車から普及車まで幅広く揃え、フルライン化が最も進んでいる自動車メーカーになっているのです。

進化の早い、競争の厳しい自動車市場において、こんなに成功する自動車メーカーになることは、ビートルが失速をした頃には、想像も出来なかったのです。

自動車としての本質的な魅力を高めながら、デザイン力を高めたフォルクスワーゲンの底力は、非常に強くなっていると言わざるを得ないのです。

われわれは、フォルクスワーゲンから学べることはたくさんあるのです。

画像は、昨日、本社に来社して、一緒に楽しいランチを共にした広本さんです。

ボストンでラーメン店が開店したら、ぜひ、見に行きたいと思っています。

今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。

Picture of 藤井 薫(ロッキー藤井)

藤井 薫(ロッキー藤井)

株式会社大和製作所、株式会社讃匠 代表取締役。
令和5年 秋の叙勲にて「旭日単光章」受章。

1948年5月、香川県坂出市生まれ。国立高松工業高等専門学校機械工学科卒業。川崎重工株式会社に入社し、航空機事業部機体設計課に配属。その後、独立し、1975年に大和製作所を創業。

過去48年以上にわたり、麺ビジネスを一筋に研究し麺ビジネスの最前線で繁盛店を指導。麺専門店の繁盛法則について全国各地で公演を行う。小型製麺機はベストセラーとなり、業界トップシェアを誇る。
「麺店の影の指南役」「行列の仕掛け人」として「カンブリア宮殿」「ありえへん∞世界」「スーパーJチャンネル」等、人気TV番組に出演するほか、メディアにも多数取り上げられる。
また、2000年4月にうどん学校、2004年1月にラーメン学校とそば学校を開校し、校長に就任。

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