うどん学校・ラーメン学校・そば学校・パスタ学校で成果アップ|「イノベーションと起業家精神」「大学と病院の例」

日本人には1人で食べきるのが大変な大きなアヒルの半身

本日のテーマは、「価値を生み出す」です。

スイスは一人当たりのGDPは世界4位で、日本の2倍以上もありますが、スイスに来て感じるのは、物価、人件費すべてにおいて高いのです。

高いために、ドイツから毎日国境を越えて、仕事に通っている人が多くいるとのことですが、それが出来ているのは、高い価値のある、仕事を行なっているためなのです。

スイスの主要産業の一つとして、観光立国をテーマにしていますが、世界中から観光客を集めているので、建物等にも厳しい規制がかけられ、簡単に外装を変えることが出来ないのです。

昨日はスイスから、ドイツへ入り、また夕方にはスイスに帰ってきましたが、行く先々の道路に面した建物はすべて、時代を感じさせる建物ばかりで、まるで絵のような、公園の中を走っているような雰囲気なのです。

これはスイスだけでなく、ロンドンでも見かけたのですが、通りから建物を見ると、古めかしい立派な建物ですが、裏側に回ると、近代的な作りになっていて、外から見る外観だけが、時代を感じさせるようになっているのです。

このように、頑なに観光立国を目指すために、古い歴史と趣のある風情をわざとお金をかけて残していたのです。

前回の1月のスイス訪問時には、そこまで気付かずに、何代にもわたり、同じ建物を使えるので、建築費用が安く上がるのではと思っていたのですが、そうではなく、国の政策である観光立国に国民が協力し、その結果、国民全体が潤っているのです。

また、建物の外観とかの問題ではなく、観光立国が成立するためには、治安が良いのも、重要な要素で、安全が保てない国には、誰も行きたがらないのです。

こうして世界中を見回してみると、日本のように治安の良い国とそうでない国、例えば、イタリアとか、パリ等では、常にスリに注意しなければいけないのです。

従って、治安の悪い国は、国民が自分たちで国の価値を下げ、スイスのように治安の良い国は、国自体が、国の価値を上げるために、長い時間をかけ、たいへんな努力を積み重ねていることが分かります。

世界の先進国で、国民一人当たりのGDPの高い国ほど、国自体がさまざまな要素で、国の価値を上げるために、たいへんな努力を積み重ねていることが分かります。

そして、当然なことですが、国民一人当たりのGDPの高い国ほど、国民は裕福な暮らしを送ることが出来、繁栄を享受することが出来るのです。

だから、国の繁栄の指標として、国民一人当たりのGDPの高さを国の経済的な目標にすれば、明確になると思います。

企業に置き換えると、従業員一人当たりの売上高に相当しますが、この数字は、企業の状態をよく表しています。

一般的に中小零細企業の場合は、業種によって異なりますが、当社のようにメーカーの場合は、年間売上を従業員一人当たりで割った、一人当たりの売上高は、 約1千万円から2千万円程度で、中堅企業になると、3千万円から4千万円になり、一部上場企業になってくると、この数字が5千万円から、1万円になってく るのです。

この数字が上がれば上がるほど、企業価値が上がっていることになります。

そして、この数字は結果であって、価値を上げるために、普段から、お客さまの得る価値を上げ続けることが、最終的に企業が得られる価値になるのです。

従って、お客さまに大きな価値を与えることが一番重要であり、この価値の高さが高いほど、自社の得られる価値が大きくなるので、われわれのビジネスは端的に言えば、お客さまが得られる価値の高さの競争をしているのです。

そのために、片時も価値を高めることを社内全体で実践し続けるのです。

それには、自社、自分のことは後にして、お客さまを最優先するスタッフたちを幾ら育てることが出来るかによって決まるのです。

建前ではなく、本音でこれを行ない続けると、どんなに規模の大きい企業と競争しなければいけない状態になったとしても、負けることはなく、どんなビジネスも、お客さまの支持なしに生き延びることは出来ないのです。

当社も起業した初めからこのようなことが分かっていた訳ではなく、創業40年も経ち、たくさんの失敗の中から得られた貴重な教訓であり、これがマネッジメントの真髄であると思っています。

本年2月21日から始まった、91日間に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びは、昨日で一応終えたのですが、さらに、学びを深めるために、大切な部分の復習を進めていきたいと思います。

更に、イノベーションと起業家精神を磨き、会社を大きく変えるのに、役立てていきます。

「大学と病院の例」

起業家精神とは、経済的な組織に限定されるものではなく、起業家精神の歴史において、近代的な大学、とくにアメリカの大学の創設と発展に勝る例はなく、西 洋における近代的な大学は、ドイツの外交官ヴィルヘルム・フォン・フンボルトが構想し、彼は1809年、フランスから知的、科学的主導権を奪うとともに、 フランス革命によって解放されたエネルギーを、そのフランスに対して、特にナポレオンに対して向けることを目的として、ベルリン大学を創設したのです。

その60年後、ベルリン大学が頂点に達した1870年頃、大西洋を隔てたアメリカでも、社会改革の旗手としての大学というフンボルトの考えが実現し、南北 戦争が終わるころ、アメリカでは植民地時代の単科大学が衰退していた、1870年には、1830年頃と比べて人口は3倍近くに増えていたにもかかわらず、 大学生の数は半分以下に減っていたのです。

しかし、その後の30年間において、名だたる学長が次々と現れ、アメリカ型の新しい総合大学を創設し、1世紀前にフンボルトの大学が、学問研究の分野で世 界の指導的地位をドイツにもたらしたように、第一世界大戦後、その地位をアメリカにもたらしたのです。(ドラッカー著書 マネッジメント参照)

さらに第2次世界大戦後、起業家精神にあふれた教育界の人たちが、NYのペイス大学、フェアレイ・デイキンソン大学、NY工科大学、ボストンのノースイー スタン大学、西海岸のサンタクララ大学、ゴールデン・ゲート大学のような新しい都会型の私立大学をつくり、近年アメリカで最も成長した高等教育機関が、そ れら新しい型の大学であり、講義そのものは、以前とあまり変わらなかったが、対象が違っていて、高校の新卒者よりも、すでに働いている人たちを対象にした のです。

寄宿舎に住み、週5日、9時から5時まで講義に出る昔ながらの学生ではなく、自宅に住み、夜間の授業に出てくる大都市の成人に的を絞り、伝統的な大学生よ りも、多様な生活背景を持つ種種雑多な学生を対象にしたので、それらの大学は、市場の変化、すなわち学位が上流階級のものから中流階級のものに変化したこ と、さらには、大学に行くことの意味が変化したことに対応し、まさに起業家精神によって生まれた大学だったのです。

日本における教育の歴史は、江戸時代の藩校に源流を見ることが出来、日本が幕末から明治維新に移行し、近代国家に早く移行することが出来たのは、江戸時代 における藩校の果たした役割は、非常に大きなものがあり、ウイキペデイアによれば、藩校の内容や規模は多様ですが、藩士の子弟は皆強制的に入学させられ、 後に、武士階級以外にも開放された藩校もあるのです。

広義では医学校・洋学校・皇学校(国学校)・郷学校・女学校など、藩が設立したあらゆる教育機関を含み、全国的な傾向として、藩校では武芸も奨励され、 7〜8歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、14〜15歳から20歳くらいで卒業し、教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期に は蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加わり、藩校の入学における主な試業(試験)は素読吟味であり、四書(儒学の基本文献。「大学」「中庸」「論 語」「孟子」の総称)のうち、抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げるのです。

内容の解釈はともかく、読みの誤謬(読み間違い)、遺忘(忘れてしまうこと)の多少で合否が決まり、藩校の入学試験に合格しても、次から次へと試験を行わなければならず、落第した者には厳罰が課せられ、特に3度の落第者には厳しい厳罰が設けられていたのです。

それは藩校によって様々ですが、主な厳罰として、嫡男なら相続の際、家禄の減俸、更に親の役職を継ぐにもままならず、無役のまま生涯を送ることもなりかね ないので、江戸時代の藩校では現在では考えられないような厳しい教育制度であり、その制度の下で、幕末に海外から日本に来た諸外国の外国人たちは、日本人 の素養の素晴らしさに舌を巻いていたのです。

徳川家光時代までの武断政治から文治政治への転換と共に、藩校が各地に設立され、日本初の藩校は、1669年(寛文9年)に、岡山藩主池田光政が設立した 岡山学校(または国学)で、全国的に藩校が設立された時期は宝暦期(1751年〜1764年)以後であり、多くの藩が、藩政改革のための有能な人材を育成 する目的で設立した学校が多いのです。

また柳河藩や米沢藩のように、江戸時代中期頃に藩の儒臣の自宅につくられた孔子廟や講堂を江戸時代後期に移転拡大し、藩の役職に藩校関係職を設立して藩営 化して藩校とする場合も見られ、各地では優秀な学者の招聘も盛んに行われ、発展期には全国に255校に上り、ほぼ全藩に設立され、藩校の隆盛は、地方文化 の振興や、各地域から時代をリードする人材等の輩出にも至り、代表的な藩校としては、会津藩の日新館、米沢藩の興譲館、長州藩の明倫館、中津藩の進脩館、 佐賀藩の弘道館、熊本藩の藩校時習館、鹿児島藩(薩摩藩)の造士館などが有名であり、特に薩長の雄藩では教育においても優位に立っており、薩長土肥の連合 において有力な人材を輩出したのです。

また、越後長岡藩の就正館(文政13年(1831年)、「長岡市史」)や長州藩の有備館(天保12年(1841年)、「萩市史」)のように藩内だけでなく 江戸藩邸内にも藩校を開設した藩も存在し、藩校の中には、藩主の転封やその他の理由による藩庁移転に伴って、新しい領地・藩庁所在地へ移設・新設されるも のもあり、立教館(白河藩→桑名藩)などは転封による移設の例であり、また、長州藩では倒幕・攘夷戦に備えるため萩から山口へ、小倉藩では幕長戦争による 小倉城落城から豊津へ、それぞれ藩庁を移転し、新しい藩庁所在地において藩校も新設されたのです。

幕末には、佐賀藩、金沢藩、山口藩、中津藩、薩摩藩、佐倉藩等の一部の藩校は、国学・漢学に止まらず、医学、化学、物理学、西洋兵学等の学寮を併設する事 実上の総合大学にまで発展し、明治4年7月(1871年8月)廃藩置県で藩校は廃止されたが、明治5年8月(1872年9月)学制発布後の中等・高等諸学 校の直接または間接の母体となり、1886年(明治19年)中学校令の公布とともに、東京大学予備門が廃止され、全国に文部大臣の管理に属する七校の官立 高等中学校(後に(旧制)高等学校と改称)が開設されたのです。

各高等中学校のうち、山口、鹿児島、金沢(第四)の本部(本科)、および岡山(第三)、仙台(第二)、金沢(第四)の医学部は、旧藩校 (山口明倫館、鹿児島造士館、金沢明倫堂)や、藩医学校(岡山医学館、仙台明倫養賢堂、金沢医学館)の流れを汲むものであり、これらの旧藩校の後進諸校 は、その後(改組・中絶・再興等を経て)大学にまで発展することになり、旧制(尋常)中学校に留められたその他の旧藩校は、現在では新制高等学校として存 続しているものが大半であるのです。

以上のように、近代日本の学問の制度は既に、江戸幕府時代に基礎が作られ、それを基にして、発展してきたことがよく分かり、同時に、どの国を見ても、国の 繁栄を担っている大本は、教育にあったことも併せてよく分かり、現在では教育の世界もグローバル化が進み、優秀な学生を世界中から集めることが出来る大学 が、成果を上げ続けているのです。

「世界ランキング統計局」によれば、2012年10月3日、イギリスの高等教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE Times Higher Education)」が、2012年版の「THE 世界大学ランキング 2012(World University Rankings 2012-2013)」を発表し、「THE 世界大学ランキング」は、「教育環境」「国際性」「産業界からの収入」「研究」「引用」の5つの全体的指標と、13の個別的指標から評価され、その中から 上位400大学が公表されるのです。

ランキング1位は昨年同様、カリフォルニア工科大学(アメリカ)が選ばれ、2位にオックスフォード大学(イギリス)、3位スタンフォード大学(アメリカ) と続き、1位から25位までは、12位のチューリッヒ工科大学(スイス)を除き、全てアメリカ、イギリス、カナダと、英語圏の国の大学で占められ、非英語 圏の国の大学では27位の東京大学が最高位であるのです。

またアジアの大学では、27位の東京大学に次いで、29位シンガポール国立大学(シンガポール)、35位香港大学(香港)、46位北京大学(中国)、50 位浦項工科大学校(韓国)の順となっていて、これらアジアの大学は近年、急速に順位を上げてきていて、中でもシンガポール国立大学は昨年の40位から29 位に、清華大学(中国)は71位から51位に、ソウル大学校(韓国)に至っては124位から59位に大きく躍進したのです。

日本の大学では、昨年の30位から27位に順位を上げた東京大学がトップで、次いで、54位京都大学、128位東京工業大学、137位東北大学、147位 大阪大学となり、200位以下では201-225位に名古屋大学が、251-275位に首都大学東京、276-300位に東京医科歯科大学、 301-350位に北海道大学と九州大学、筑波大学が、351-400位に慶応大学と早稲田大学がランクインしていますが、このランキングの指標ごとのス コアをみると、日本の大学の弱点が浮き彫りになってくるのです。

中でも「国際性」のスコアが総じて低いことが指摘され、特に、東京大学27.6点や京都大学の26.3点は、トップ100にランクインした世界の大学の中 でも最低水準であり、「国際性」は外国人教員や留学生の比率などで評価されるのですが、今後はこの弱点を克服するために、大学制度の改革や、海外からの高 度人材の誘致とそれに伴う法整備、外国人の就職環境の改善など、大学と政府、企業を巻き込んだ具体的な政策が求められるのです。

当社も麺學校を運営しているので、教育の大切さは痛いほど分かり、総合大学のような多岐にわたる、高度な内容の授業ではないのですが、麺打ち職人を育てる 学校ではなく、麺専門店経営者を育てる学校を行なっているのですが、当社の本業は製麺機の製造販売であり、そのような当社が運営している麺學校であるの で、ときどき、製麺機を販売するための学校であると勘違いされる場合があるのですが、もし、製麺機を売ることを目的に麺学校をすれば、本来であれば、麺専 門店を開業しない方が良い生徒さんにまで開業を勧めるようになるのです。

当社では、もし、生徒さんが開業に失敗し、閉店すれば100%製麺機を買い戻すようにしているので、そのようなことを避けるために、失敗する可能性のある 生徒さんには、絶対に開業を勧めないので、当社の麺學校の役割は、単に成功のノウハウを教えるだけでなく、生徒さんの適性を見分けるための学校でもあるの です。

近代病院の歴史からも、起業家精神についてのケース・スタデイーの本を書くことが出来、近代病院は、18世紀の末、エデインバラとウイーンで生まれ、アメ リカでは19世紀に地域病院(コミュニテイ・ホスピタル)として生まれ、20世紀の初めには、メイヨー・クリニックやメニンガー基金など専門化した医療セ ンターが生まれ、第二次世界大戦後には、保健センターが現われたのです。

そして今日、医療界の新しい起業家たちが、救急外科クリニック、産婦人科センター、神経科センターなど、病人の介護ではなく、特定の医療ニーズに応えるた めの専門医療機関を生み出していて、世の中の変化に伴ない、学校にしろ、病院にしろ、あらゆるものに違ったニーズが発生し、それに対してイノベーションを 起こして対応した人たちだけが社会を変えて、人びとの幸福に貢献しているのです。

昨日は、昼間、ドイツの片田舎まで、車で片道150kmの距離を2時間かけて走ってみると、街並みのきれいさには、驚かされたのです。

ドイツの客先の近くの田舎のレストランで、ドイツ料理の昼食を摂ると、馬鹿でかい量で、誰も食べきることが出来ないのです。

われわれ日本人は、2人で1人前の料理が丁度良い位で、出て来た量目に驚きました。

画像は、大きなアヒルの半身ですが、とても一人で食べ切れるような量ではなかったのです。

今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。

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