本日のテーマは、「困難の先にあるもの」です。
今回のドイツの視察では、シュツットガルトのアルガイヤー恵子さんに、たいへんお世話になり、昨日はベンツ博物館とポルシェ博物館へ行ってきました。
2年前に、シアトルのボーイング博物館でも感動しましたが、今回のベンツ博物館での感動はそれ以上で、先日、ベンツの工場見学とは比較にならない位の、強い、訴える力がありました。
特に、カール・ベンツが創業し、なかなか自動車が完成しなくて、カール・ベンツが資金繰りにあえいでいるころ、まだ、正式に結婚していなかったにもかかわ らず、後に結婚したベルタ夫人は、自分の結婚持参金を担保にして、銀行からお金を借りて、自動車を完成させることが出来たのです。
ところが、完成した自動車が売れなくて、ベルタ夫人が小さい子ども2人を、夫に言わずに、自動車に載せ、暗い夜道を100km以上も離れた実家に、初めて自動車で出かける話がありました。
その頃の自動車には、ライトも付いていないし、坂道は自動車を押して上ったそうで、自動車用の舗装された道路でなく、凸凹道をクッションも付いていない、 いつ止まるか分からないエンジンのついた車で走るのは、たいへん困難なことであったのですが、夫を助けようとして、自動車を多くの人に知らせたい一心で、 たどり着いたそうです。
当時、馬でさえもこんなに長い道を一気に行くことが出来なかったので、この出来事が話題になり、これが境になり、自動車が知られ始めたとのことでした。
最初は地元ドイツでは売れずに、フランスで売れ始めたのですが、事業はなかなか軌道に乗らずに、ある時、オーストリアの金持ちが自分の娘の名前を車に付け てくれれば、大量にまとめて買うとのことで、自動車に娘の名前のメルセデスを付けたのが、メルセデス・ベンツの名称の由来であったのです。
以上のように、さまざまな困難を乗り越えて、世界初の自動車メーカーが誕生し、ドイツでトップの自動車メーカーとして君臨したのですが、第二次世界大戦で はナチス・ドイツの政策に巻き込まれ、終戦時には、工場はすべて破壊され、文字通り、ゼロからの再出発だったのですが、戦後は、次つぎに発表するニューモ デルが当たり、再度、世界に君臨する自動車メーカーになることが出来たのです。
ベンツの歴史を見ると、諦めず、一流を目指した技術者魂が、ベンツを世界有数の自動車メーカーにしたことがよく分かり、創業してから今日までのベンツの歴史を、時代ごとの出来事と共に、良いことも悪いことも包み隠さずに、分かりやすく表現されています。
今まで、自動車としてのベンツは良く知っていましたが、ベンツの歴史について、深く理解することがなかったので、ベンツ博物館に来て、ベンツがなぜ、世界に君臨することが出来たのかがよく分かり、非常に親しみを覚えました。
また、博物館にはシッカリしたレストランが併設されていて、この地方の郷土料理を高いレベルで提供していて、どの料理も素晴らしいレベルで、料理にまで、妥協しない、ベンツ魂を見ることが出来、ベンツがスッカリ好きになったのです。
また、館内の案内をしている受付の人たちもたいへん親切であったことが、余計に、ベンツのファン作りの貢献していることが分かりました。
博物館への入場料は払いましたが、博物館があることで、自動車の商品力に頼るだけでなく、ベンツの哲学を広く一般の人たち広めるのに、一役買っていることが分かるような素晴らしい博物館でした。
一方、ポルシェ博物館はベンツより、こじんまりしていて、建物とか展示物は、素晴らしかったのですが、ベンツのようなハートを感じず、ベンツが辿ってきた 苦難の歴史と、どんなに苦しくても、諦めることを忘れた人たちの魂が、われわれのハートに強く迫る部分があったのです。
ベンツは、過去20~30年の間に戦略的には失敗の部分が多く、プレミアムカーのジャンルでは、後発のBMWとか、AUDIに抜かれてしまったのですが、企業スピリッツは素晴らしいものを持っていることがよく分かりました。
当社の場合もここまでの道のりは決して平たんではなく、今後とも平坦で快適な道のりではなく、むしろ苦難の道のりをスタッフたちに歩んで貰わなければならず、それを乗り越える素晴らしい人たちに育って欲しいと思っています。
むしろ、自分たちで難しい道を選び、果敢に立ち向かい、自分自身でレベルを高める続けることが出来る人間に育って欲しいと願っています。
私の辿って来た道から言えることは、暗いトンネルを抜ければ、明かりが灯っているのですが、多くの人たちは長いトンネルの中でとん挫してしまい、もう少し頑張れば、明かりが見えるのに途中でギブアップしてしまっているのです。
麺専門店を開業した後も、あと、ほんの少しのところでトンネルを抜ける、ほんの少し前の残念なところで、ギブアップする人が多いのです。
本年2月21日から始まった、91日間に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びは、昨日で一応終えたのですが、さらに、学びを深めるために、大切な部分の復習を進めていきたいと思います。
更に、イノベーションと起業家精神を磨き、会社を大きく変えるのに、役立てていきます。
「資源の創造」
人間が利用の方法を見つけ、経済的な価値を与えない限り、何ものも資源とはなり得ず、例えば、植物は雑草にすぎず、鉱物は岩にすぎず、地表に沁み出る原油 やアルミの原料であるボーキサイトが資源となったのは、1世紀少々前のことであり、それまでは、単に知力を損なう厄介物にすぎなかったのです。
ペニシリウムなるカビも単なる厄介物であり、資源ではなく、細菌学者たちは、ペニシリウムから細菌の培養液を守ることに苦労をしていたのですが、1920 年代になり、ロンドンの医師アレキサンダー・フレミングが、この厄介物こそ細菌学者が求めているものであることに気づき、そのとき、初めてそれは、ペニシ リンをもたらす価値ある資源となったのです。
社会や経済の領域でも同じことが起こり、経済においては、購買力に勝る資源はなく、購買力もまた、起業家のイノベーションによって創造されるのです。
19世紀の初め、アメリカの農民には事実上購買力がなかったので、数十種類もの収穫機が出ていたが、買えなかったのですが、そのとき収穫機の発明者の1 人、サイラス・マコーミックが割賦販売を考え出し、農民は、過去の蓄えからではなく、未来の稼ぎから収穫機を購入できるようになり、突然、農機具購入のた めの購買力が生まれたのです。
「富の創出能力の増大」
既存の資源から得られる富の創出能力を増大させるのも、すべてイノベーションであり、トラックの荷台を荷物ごと切り離して貨物船に載せるという考え方は、 新技術とはかかわりがなかったのですが、コンテナー船というイノベーションは、技術の進歩からではなく、貨物船を単なる船としてではなく、運搬用具として 見ることから生まれたのです。
重要なことは、港での貨物船の滞留時間を短くすることであり、この平凡なイノベーションが貨物船の生産性を4倍も高め、運搬業の危機を救い、経済史上最高の成長ともいうべき40年間における世界貿易の伸びをもたらせたのです。
初期教育の普及をもたらせたのも、教育に対する理解、教師の育成、教育学の進歩ではなく、最もイノベーションらしからぬイノベーションは、17世紀半ばの チェコの偉大な教育改革者、ヨハン・アモス・コメニウスによる教科書の発明であり、教科書がなければ、いかに優れた教師であっても、1度に1人か2人の生 徒しか教えられないのですが、教科書があれば、平凡な教師でも1度に30人から35人の生徒を教えることが出来るのです。
当社の麺學校でも、教科書が完成してから、授業内容のレベルが飛躍的に向上し、最初は教科書がなく、プリントのようなもので授業を行なっていたのですが、 授業内容が体系化されるに従い、教科書が完成し、授業を行なうようになると、ノウハウの構築に加速度がついてきたのです。
次つぎと新しいノウハウが生まれ、一度作成した教科書を一定の間隔で、次つぎとリニューアルしなければいけなくなってきたので、ある期間が経てば、新しい 内容になり、常に改訂版の出版が必要になり、教科書のお蔭で授業内容の進化が速まり、教科書を事前に生徒が読んでくるので、生徒の理解度も高まったので す。
教科書を作るというのは、とてもイノベーションには思えないようなことですが、結果を大きく変え、授業の成果に大きな、良い影響を及ぼし、新規開業者の多くが失敗するのは、マネッジメントの理解不足であるので、マネッジメントの教科書はたいへん意味があるのです。
次に、多くの生徒さんたちにとって難しいテーマは盛り付けであり、近々完成する盛り付けの教科書も生徒さんたちにとっては、貴重な財産になり、既に完成し ている教科書では、デジタル・クッキングについて詳述しているので、無化調でのデジタル・クッキングの理解にはたいへん役立っているのです。
この様にしてみると、われわれが普段イノベーションと思わずに実行していることも立派なイノベーションになっていて、われわれの身の回りにある、普段何気 なく接している、何がイノベーションであり、その結果、大きく成果を挙げている内容は何かを理解することが、次のイノベーションを創り出すのに大きく役立 ち、われわれ日本人は、イノベーションとは技術革新であり、イノベーションを起こすのは、特殊な人のように思っていますが、イノベーションは不便なとこ ろ、不満足から生まれているのです。
コンテナ船の事例では、過去、貨物船が港で荷卸しのために長時間停泊せざるを得ない状態になり、ある貨物船の荷卸しの最中には、次の荷卸しを待っている貨 物船が次々と列になって待っている状態であり、これらの貨物船は時間を無駄にしているだけであり、途轍もなく、貴重な資源を浪費していたのです。
従って、お客さまが抱えている不便、不満を取り除くこと、社内外にある不便、不満を解決することがイノベーションに繋がり、その効果は大きく、上記の収穫 機を作っていたサイラス・マコーミックは、割賦販売制度を収穫機の販売に取り入れ、ビジネスに大きな成果をもたらせ、いつの時代でも、お客さまが買い易く することは、需要を創出するためには、欠かせないのです。
「社会的イノベーション」
イノベーションは技術に限ったものではなく、モノである必要さえなく、それどころか、社会に与える影響力において、新聞や保険を初めとする社会的イノベー ションに仇敵するイノベーションはなく、割賦販売は、まさに経済そのものを供給主導型から需要主導型へと変質させたのです。
1948年のチェコスロバキアや1959年のキューバのように、共産主義が権力を得て、最初に禁止する経済活動が、割賦販売である理由もここにあり、同様 なお金に関するイノベーションとしては、今では当たり前で、誰でも使っているキャッシュ・カード、プリペイド・カード(スイカ等)、お財布携帯、電子マ ネー等々、数えきれない種類の新しい貨幣が出来たのです。
使い始めのころは少し違和感があったのですが、今ではまったく当たり前になり、誰でも普通に使っていて、政府が行なっている補助金政策も、税収確保のため の一種のイノベーションであり、今ではごくごく当たり前になっている、給与制度もイノベーションであり、これからもイノベーションを起こし続けていかなけ ればいけない分野で、給与も、その時代、時代のニーズに合った給与制度でなければいけないのです。
18世紀啓蒙主義による社会的イノベーションの1つである近代病院は、いかなる医学上の進歩よりも、医療に対し大きな影響を与え、明治維新までの日本に は、病院はなく、病気になれば、町の医者に診て貰い、薬を買って飲むしか方法がなく、明治以降の日本の医療において、病院が果たした役割は限りなく大き く、昔は人生の終わりを迎えるのは、自宅であったのが、現在ではほとんどの人が病院で亡くなっているのです。
多様な知識や技術を有する人たちを、共に働かせるための知識としてのマネッジメントもまた、今世紀最大のイノベーションであり、まったく新しい社会、いかなる政治理論や社会理論も準備されていない組織社会を生み出したのです。
明治以前の日本では、会社で誰かと一緒に働くという概念がなく、明治以降、会社組織が出来、人びとの働き方が一変し、経済史によれば、ドイツではじめての 蒸気機関車を作ったのはオーガスト・ボルジヒですが、彼は、はるかに重大なイノベーションとして、ギルドや教師、或いは官僚の抵抗を押し切り、今日、ドイ ツ産業の基盤となっているドイツ特有の工場システムを作ったのです。
彼は、広範な裁量権のもとに職場を動かす、敬意を払われる存在としてのマイスター制度や、現場訓練と学校教育を結合させた徒弟制度を作り、今でもドイツは 世界屈指のモノ作り大国になっているのは、こうした先輩たちが基礎を作った努力のお蔭であり、今でもその遺産が脈々と引き継がれているのです。
マキャベリの「君主論」(1513)による近代的な政府の概念と、その約60年後の後継者ジャン・ボーダンによる近代国家の概念は、いかなる技術的イノベーションよりも、近代社会に永続的な影響をもたらしましたのです。
社会的イノベーションとその重要性について最も興味ある例は、近代日本であり、開国以来、日本は、1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、或いは真 珠湾の勝利、さらには1970年代と80年代における経済大国化、世界市場における最強の輸出者としての台頭にも関わらず、欧米からは常に低く評価されて きたのですが、その主たる理由、恐らく唯一の理由は、イノベーションとはモノに関するものであり、科学や技術に関するものであるという一般の通念にあった のです。
実際、日本は、欧米だけでなく日本においても、イノベーションを行なう国ではなく、模倣する国だと見られてきましたが、これは、科学や技術の分野で、日本 が際立ったイノベーションを行なっていないためだったのですが、日本の成功はイノベーションによっていて、日本が開国に踏み切ったのは、征服され、植民地 化され、西洋化された、かってのインドや、19世紀の中国の二の舞をしたくなかったからです。
日本は、柔道の精神により、欧米の道具を使って欧米の侵略を食い止め、日本であり続けることを目指し、日本にとっては、社会的イノベーションの方が蒸気機 関車や電報よりもはるかに重要であり、しかも、学校や大学、官僚機構、銀行、労使関係のような社会的機関の発展、すなわち社会的イノベーションの方が、蒸 気機関車や電報の発明よりもはるかに難しかったのです。
ロンドンからリバプールへ列車を引く蒸気機関車は、いかなる応用も修正もなしに、そのまま東京から大阪へ列車を引くことが出来るのですが、社会的機関は、 日本的であると同時に、近代的でなければならず、日本人が動かすものでありながら、同時に西洋的かつ技術的な経済に適合するものでなければならないので す。
技術は安いコストで、しかも文化的なリスクを冒すことなく導入できるのですが、社会的機関が発展していくためには、文化的な根を持たなければならないの で、日本はおよそ100年前、その資源を社会的イノベーションに集中することとし、技術的イノベーションは模倣し、輸入し、応用するという決断を下し、見 事に成功し、この日本の方針は今日でも正しいと言えるのです。
なぜならば、ときには冷やかしの種とされている創造的模倣なるものこそ、きわめて成功の確率の高い立派な起業家戦略だからであり、今日、仮に日本が他の国 の技術を模倣し、輸入し、応用する以上のことを行なうべく、自ら純粋に技術的イノベーションを行なわなければならなくなっているとしても、日本を過小評価 してはならないのです。
そもそも開発研究そのものが、ごく最近の社会的イノベーションであり、日本はこれまで行ってきたように、そのようなイノベーションに長じていて、しかも日本は、起業家としての戦略にも長じているのです。
もともと、日本の食文化ではなかった、うどん蕎麦は勿論、ラーメンまでも、日本の食文化として、世界に広めていることが出来ていることこそ、日本の得意技の創造的模倣により起業家戦略であるのです。
まさにイノベーションとは、技術というよりも、経済や社会に関わる用語であり、イノベーションは、J・B・セイが起業家精神を資源の生産力を変えることと 規定したのと同じように定義することが出来、或いは、近代経済学者がしばしば言うように、供給に関わる概念よりも需要に関わる概念、「消費者が資源から得 られる価値や満足を変えること」と定義することが出来るのです。
ドラッカーは日本の明治維新以降の社会的イノベーションについて、たいへん高い評価を下していて、このような見方は、ほとんどの人が行なっていないのですが、ドラッカーは、一般的な日本の理解とは異なる理解を示しているのです。
私も明治維新以降の日本について、考察してみると、栄光と挫折の繰り返しであることがよく分かり、日本のイノベーションも近代国家になる前半、特に明治維 新から大正時代にかけては、非常に成功しているのですが、第二次世界大戦で大敗し、第二次世界大戦後の復興期においては、大成功し、成功の後、ずっと沈滞 が続いているのです。
日本国のイノベーションの歴史を振り返ると、明治の初期の弱小国であった頃は、思い切りリスクを取り、その後、日本が欧米の強国に肩を並べるようになって から、日本は方向を変え、戦争に突入し、第2次世界大戦後の焦土で何もない日本は、ゼロからの再スタートになり、思い切り、リスクを取らなければいけない 状態になり、その後、経済は急成長し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われるようになったころから、日本は再びおかしくなり、経済的(国民一人当た りのGDPの伸び)にはこの25年間ずっと停滞しているのです。
現在の日本において、一番イノベーションが必要な部分は社会的イノベーションであることがよく分かり、そのリーダー・シップを取らなければならないのは、政府であり、われわれ起業家であるのです。
画像は、昨日のベンツ博物館のレストランでの昼食メニューのパスタで、このパスタはこの地方独特のパスタ、スプッツエルで、多加水で、柔らかく溶いた、卵 の入った麺生地を容器に入れ、下に開けてある穴から熱湯の上に落とし、茹で揚げたパスタで、食感にモチ感があり、柔らかいのが特徴です。
ベンツ博物館のレストランの料理は美味しいだけでなく、見た目もきれいで、ウエイトレスたちの対応も素晴らしく、ベンツの企業文化を感じさせる素晴らしいレストランでした。
ベンツの苦難の歴史が創り上げた、素晴らしいレストランと料理とサービスでした。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。