本日のテーマは「理解度の向上のために」です。
一昨日は、今回の経営講義参加の生徒さんたちの元気がなかったので、雰囲気を変えるために、昨日は着物で講義を行ないましたが、ベトナム出身のハンさんとか、韓国出身のクオンさん、キムさん等には、非常に好評でした。
いつもは作務衣であり、和装でほとんど着物に近いのですが、作務衣と着物ではだいぶ着たイメージが違うようで、私自身も着物の方が、気持ちが改まります。
本当は、毎日着物でも構わないのですが、着物の場合は、着物に合った歩き方になり、ウオーキングには向いていないので、作務衣の方が筋トレとか、ウオーキングには楽なのです。
しかし、着物を着ていると、日本人に戻ったような気持になるのが不思議で、これから海外で授業を行なう時も、着物を着て英語をしゃべって授業を行なうのは、面白いのではと思っています。
海外だけではなく、国内でも着物で授業を行なうのも、生徒さんの雰囲気が変わり、日本文化を学んでいるような気になるのではと思います。
服装の違いで気分が変わるので、服装は非常に重要で、麺学校で実技指導の場合は着物ではなく、作務衣の方が楽ですが、経営講義は着物で十分出来るので、これからも着物でチャレンジしてみます。
昨日は、着物で授業を行なったせいかどうか分かりませんが、一昨日よりは熱心に質問が出て、少しは改善されました。
経営講義が終わった後、今回の反省を踏まえ、今後の経営講義の改善にために多彩な顔ぶれの講師たちと一緒に打合せを行ないましたが、昨日打ち合わせたのは、私以外はすべて女性で、ベトナムのハンさん、韓国のクオンさん、キムさん、そして日本人の湯浅さんですが、これだけ国際的に多彩な人たちが揃っていると、違った視点で、面白いアイデアが出てくるのです。
現在は、生徒さんとの初顔合わせが授業の開始で、各生徒さんについては事前のアンケート程度しか、情報がないので、皆の意見が一致したのは、経営講義が始まる前までに、参加する生徒さんとスカイプ等でインタビューを行ない、参加する生徒さんたちの真のニーズを確認し、事前の準備事項(教科書の熟読と理解)等の確認を完全に行なうことを取り決めたのです。
日本には、当社の麺学校のような指導方法を行なう学校がないので、多くの生徒さんは予習をしないで参加しても何とかなる、或いは、マネッジメント等は、麺ビジネスの繁盛には関係ないと思っている生徒さんが、多いのです。
本日、台湾の台中市から突然、うどん学校を卒業して、今年開業した周さんが最初に開いた店が成功し、今度2号店を出店するとのことで、突然、来社したのです。
12月に来社するとは聞いていたのですが、いつ来るとは聞いていなくて、突然であったのですが奥さまと一緒に来られ、1号店はまずまずの成績で推移し、今度2号店を1月に開店するので、その準備のためにさまざまな備品類を日本に買い付けに来たとのことでした。
周さんは、そのごろ参加した生徒さんたちの中で、ピカイチ熱心な生徒さんで、この人は成功するだろうと思っていたし、余りにも熱心であったので、開店時に店のチェックに台中まで、今年の2月に訪問したのは、周さんの熱心さが、私を台中まで突き動かしたのですが、このような生徒さんは、日本人でもほとんどいないのです。
私も長年学校を運営しているので、学校参加時の様子をみると、この生徒さんは成功するかどうかが、その段階で分かります。
成功する生徒さんは、情熱があり、熱心さが異状であり、学校参加時でもそのような生徒さんは目立つので、たくさんの生徒さんたちの中でも記憶に残っているのですが、ほとんどの生徒さんは、記憶に残っていないのです。
熱心な生徒さんほど、その後のやり取りもあり、状況も当社が充分に把握できているのです。
毎回学校に参加する生徒さんは、多分、われわれがそのような目で生徒さんを見ているとは思わずに参加し、夢にも思っていないのではないかと思います。
現に当社の麺学校を卒業した生徒さんでも、うどん学校、蕎麦学校の生徒さんは、開業1年以内の閉店は4.9%、3年未満の閉店率は12.7%で、ラーメン店の場合は、1年未満の閉店率は0%で、3年未満の閉店率は6.6%でした。
要するに、うどん蕎麦学校の場合は、約20名に1人が1年以内、8人に1人が3年以内、ラーメン学校の場合は1年未満はゼロで、3年未満で15人に1人でも、それだけはいるのです。
だから、新たに卒業する生徒さんには、そのような状態にならないようにして欲しいのです。
麺学校を運営している以上、われわれは生徒さんたちに対しての責任があるので、その責任の重さを非常に大きく感じているのです。
本年2月21日から始まった、半年間以上に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びの最終のまとめに取り組んでいきます。
2専門技術戦略
大手の自動車メーカーの名前を知らない人はいないのですが、電気系統システムを供給する部品メーカーの名前を知っている人はほとんどいないし、それら部品メーカーの数は、自動車メーカーよりも少なく、アメリカではGMのデルコ・グループ、ドイツではロベルト・ボッシュ、イギリスではルーカスなどで、ミルウォーキーのA・O・スミスが、何十年も前から乗用車のフレームをつくってきたことや、ベンディックスが、同じく何十年も前からあらゆる種類のブレーキをつくってきたことを知っている人は、自動車産業の外にはほとんどいなく、今日では、これら部品メーカーのすべてが、歴史のある企業になっていて、自動車産業とともに育ってきたからであるのです。
これらの部品メーカーは、第1次大戦前の自動車産業の揺籃期に、その支配的地位を確立し、たとえばロベルト・ボッシュは、ドイツの自動車産業の先駆者たるカール・ベンツや、ゴットフリート・ダイムラーの友人であり、1880年代に会社をつくり、現在でも、自動車の部品メーカーはより専門化し、グローバル化し、規模が巨大になり、規模の大きい自動車部品メーカーは、規模の小さい自動車会社よりも大きくなり、最近の内燃機関から、電池自動車の時代になり、部品メーカーへの新規参入はハードルが高く、ほとんどないのですが、自動車メーカーへの新規参入は次々と起きているのです。
◆自らが基準となる
これら歴史のある自動車部品メーカーは、その専門技術によって、生態学的なニッチにおいて支配的地位を獲得すると、その地位をずっと維持してきて、部品メーカーが獲得したニッチは、前述の関所戦略をとった企業の市場よりもかなり大きかったが、それでもかなりユニークな市場で、それら部品メーカーは、優れた技術を開発することによって、かなり早い時期に市場を獲得し、A・O・スミスは、第1次大戦からその直後にかけて、自動車のフレームの製造において、今日いうところのオートメ化を実現し、ドイツのボッシュがメルセデスの軍用車両のために1911年頃設計した電気系統システムは、あまりに先進的であって、高級車においてさえ一般に使われるようになったのは、第2次大戦後だったのです。
オハイオ州デイトンのデルコは、1914年にGMに合併されるよりも前に、セルフスターターを開発し、これらの部品メーカーは、その専門技術によってあまりに先行しているために、ほかの企業にとっては挑戦する価値がなくなっていて、これらの部品メーカー自体が、すでに技術の基準となっているのです。
もちろん、専門技術によるニッチ戦略は、製造業に限定されることはなく、ここ10年間に、主としてオーストリアのウィーンの商社が、かつてバーターと呼ばれ、今日、カウンタートレードと呼ばれている分野で同じようなニッチ市場を手にし、先進国企業からの機関車、機械、医薬品輸出に対する代金として、ブルガリア産のタバコやブラジル製灌漑用ポンプなど、途上国の輸出品を受け取り、さらに昔、ある起業家的なドイツ人が、きわめて専門的な技術によって、今日にいたるも、当人の名前をつけた「ベーデカー」なる観光用ガイドブックをつくり、大きなニッチ市場を得ているのです。
以上のように、ビジネスの世界においては、技術分野においても、技術以外の分野においても、常にイノベーションの芽を見つけ続けることが、勝ち残るための必要最低条件なのです。
◆揺籃期でのスタート
専門技術によるニッチ市場の確立にとっては、タイミングが重要な意味をもち、新しい産業、新しい習慣、新しい市場、新しい動きが生まれる揺籃期にスタートしなければならず、カール・ベーデカーは、1828年、蒸気船が中流階級を対象にライン川観光を始めたとき、その最初のガイドブックを発行し、第1次大戦によってドイツの出版物が、ほかの国で受け入れられなくなるまで、事実上、欧米の市場を独占したのです。
ウィーンの商社は、それがまだ例外的な取引だった1960年頃、東欧の小国を相手としてカウンター・トレードを始めたので、それらの商社がウィーンに多いのもそのためで、そして10年後、第3世界が慢性的な外貨不足に陥ったとき、それらの商社は、カウンター・トレードの技術をさらに向上させて、その専門家となったのです。
専門技術による起業家戦略を使うためには、どこかで何か新しいこと、つけ加えるべきこと、あるいはイノベーションを起こさなければならず、ベーデカーの前にも旅行者用ガイドブックはあったのですが、それらは、教会や風物など文化的な情報に限られていて、イギリス貴族の旅行者は、実務的な日常の些事、ホテルや馬車の料金、チップの額などは執事に任せていたのですが、新しく現れた中流階級には、執事はいなかったので、この事実が、ベーデカーにとって機会となり、しかもベーデカーが、観光客が必要としている情報を知り、それらの情報の入手の方法や、掲載のスタイルをマスターしたあとでは、誰も同じ投資をする気にはなれなかったくらい充実していて、彼のスタイルは、今日でも多くのガイドブックに引き継がれているのです。
このように専門技術による起業家戦略は、発展の初期の段階で行なわなければならず、たとえばアメリカでは、航空機用プロペラを製造するメーカーは、第1次大戦前に設立されている2社しかないのです。
◆不断の努力
専門技術によるニッチ市場が偶然見つかることはほとんどなく、いかなる場合も、イノベーションの機会を体系的に探すことにより、はじめて市場を見つけることができ、そこで起業家は、ユニークな支配的地位に就くことのできる専門技術を開発できそうな分野を探すことが重要で、ボッシュは、生まれたばかりの自動車産業を何年もかけて研究し、アメリカの飛行機用プロペラ・メーカーとして歴史のある、ハミルトン・プロペラは、創業者が草創期の航空機産業を体系的に調査して設立し、ベーデカーは、新しいタイプの観光客を対象とする、いくつかの事業を試みたあと、自らの名を高めることになったガイドブックをつくったのです。
◆戦略の条件
したがって、この戦略の条件として、第1にいえることは、新しい産業、市場、傾向が現れたとき、専門技術による機会を、体系的に探さなければならないということであり、ありがたいことに、そのための専門技術を開発する時間は、十分あるのです。
第2にいえることは、独自かつ異質の技術をもたなければならないということであり、自動車の組み立てメーカーの先駆者たちは、例外なく機械の専門家で、彼らは機械や金属やエンジンについては熟知していたが、電気については素人で、彼らが保有せず、習得の道も知らない知識が必要とされていたのです。
ベーデカーの時代にも出版社はあったのですが、膨大な量の細かな情報を現場で集め、確認し、旅行記者を手配しなければならないガイドブックの編集は、彼らの守備範囲ではなく、そしてカウンター・トレードは、貿易でも金融でもなく、専門技術によるニッチ市場を確立した企業は、顧客と取引先のいずれからも、脅威を受けることがなく、彼らは、技術的、気質的に異質なものに、あえて入り込んでこようとはしないのです。
第3にいえることは、専門技術によるニッチ市場を占拠した企業は、絶えずその技術の向上に努めなければならないということであり、つねに一歩先んじなければならないので、まさに、自らの手によって、絶えず自らを陳腐化していかなければならないのです。
初期の自動車組み立てメーカーは、デイトンのデルコやシュツットガルトのボッシュが尻をたたくとこぼしていたもので、両社はしばしば、当時の自動車の水準をはるかに超え、しかも顧客が必要とし、欲しがり、払えると考えているものさえ超え、さらには、組み立てメーカーが組み立て方さえ見当のつかないような電気系統システムまで提案していたのです。
画像は、昨日の経営講義の様子で、生徒さんたちの覚醒のために、着物を着て授業を行ないました。
生徒さんだけでなく、私も気持ちが改まります。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。