本日のテーマは「とにかく、行ってみる」です。
昨日で、3日間にわたるシンガポールでの、One day
ramen schoolとOne day udon schoolのすべてが終了し、今朝は早くホテルを出て、1週間ぶりの帰国の途についています。
日本に到着したら非常に寒いことを想定し、ホテル出発前に下着を冬の下着に変えたのですが、空港までの間、さすがに暑かったのです。
以前は、上着は夏用と冬用を分けていて、この時期には、生地の厚い作務衣を着ていたのですが、今年は冬もずっと薄い夏用で通しているのは散歩と筋トレのお蔭で、基礎体温が上がっているせいかも知れません。
3日間のイベントを通して、カナダ、LA、イギリスからの参加者等と麺ビジネスの話をしていると、私も常に海外を体験しているので、現地の様子が手に取るように分かるので、現地のことを話し合っていても、話の内容で困ることはないのです。
当社は国内では、すでに40年の歴史があり、私はエンジニアでしたが社内にこもることはなく、むしろ常に外へ出てきた方なので、国内のことでも同様ですが、世界の麺ビジネスについて、深い知識と体験を持っている人はそれほど多くないと思います。
毎回、こうして海外に出ますが、大切なことは自分がやっていることに興味を持ち、徹底的に調べたり、体験したりすることだと思います。
今回のイベントに、インドネシアのジャカルタから参加しているお客さまが、自社製の冷凍うどんと生ラーメンを持参していたので、イベントが一段落したところで、一緒にそれらの麺を試食してみました。
冷凍茹でうどんと、当社若大将で作った生麺を比較することはできませんが、冷凍うどんとしては、まずまずの品質で、私が驚いたのは、茹で時間の短さであったのです。
その冷凍茹でうどんのサイズは、普通の茹でうどんサイズであるにも関わらず、茹で時間が3分間で、その後、急速冷凍をかけて冷凍茹でうどんにしているのです。
信じられなくて何度も確認しましたが、間違いないようで、さらに切り幅サイズが同じで、厚さの薄いうどんの方は、茹で時間が30秒であるとのことでした。
これらのことは、今までの私の製麺の常識を超えているので、近々、ジャカルタの彼の麺工場まで確かめに行こうと思っています。
このような、今まで経験をしたことがないようなことを聞くと、必ず、見に行くのですが、見に行くことによって、思わぬ発見があることが多いのです。
昨年末に、山梨のたいへんな田舎で、親子2人で、機械を一切使用せず、純粋な手打ちだけでうどんを作っている製麺所に行ったときも、新しいビジネス・モデルの発見につながり、改めて、体験することの大切さを痛感するのです。
不思議だと思ったり、気になったことは、そのままにせずに、行動することは、早く多くの失敗をすることと、同じような意味で非常に重要であり、早くものごとの真実を理解するのに役立つのです。
「最も早く学習した者が勝ち、勝者がすべてを手に入れる」のが、インターネット時代のビジネスの本質であり、学習とは、机に向かって本から学ぶだけではなく、一歩街へ出れば、われわれの周りは、すべて学習対象なのです。
昨日も夕食を兼ね、ジャカルタからのお客さまと、当社のスタッフたちと一緒にショッピングセンターの大きなフードコートに出かけ、スタッフたちが思い思いに、好きな料理のたくさんの種類を取り、分け合って食べたのです。
すると、シンガポールの地元で好まれている人気のある味がよく分かり、同時に、フードコートの店の中でも人気のある店と、そうでない店の落差が大きく、人気のある店は、お客さまが列になっているのですが、そうでない店は閑散としているので、地元では、どのような料理が好まれているのかが、良く分かるのです。
だから、海外での好まれる料理を見るには、その土地での大きなショッピングセンター内にあるフードコートへ行けば、地元で好まれる味と料理が分かるので、料理の研究には欠かせない、楽しい場所であり、シンガポールのショッピングセンター内にあるフードコートは、日本の一般的なショッピングセンター内にあるフードコートとは趣が異なり、安いけれども美味しい料理を提供する、有名店がたくさん入店しているのです。
だから私は、海外では、どこに行っても、ショッピングセンターのフードコート視察は欠かさずに行っているのです。
昨日行ったショッピングセンターは、シンガポールへ来る度に行っている有名で、規模の大きいショッピングセンターで、センター内の店のほとんどは、良く知っているのですが、行くたびに、余計に繁盛している店とそうでない店に分かれ、お客さまのニーズの変化を理解することも出来、また、店舗側の進化の違いも見ることが出来るのです。
これからもシンガポールへは、毎月のように行くようになるので、さらにシンガポールの食の研究は深まるのです。
昨年2月21日から始まった、半年間以上に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びの最終のまとめに取り組んでいきます。
◆整理期
整理期は、開放期が終わるとともに始まり、開放期に設立されたベンチャー・ビジネスのきわめて多くが、鉄道や電機、自動車などの昨日のハイテクで見られたように、この整理期を生き延びることができないのです。
本書が出版された1985年ごろ、マイクロプロセッサー、ミニコンピュータ、PCの各産業は、開放期が始まってまだ5、6年しかたたないにもかかわらず、すでに整理期が始まっていて、この産業に属する企業は、アメリカだけでも、おそらく100社以上あったのですが、10年後には、一応の規模を持つそれなりの企業でさえ、1ダースを超えることはなかったのです。
いずれが生き残り、いずれが死ぬか、いずれが生きることも死ぬこともできずにいるかはわからず、予測をしても無駄で、規模が大きいために、生き残れるという企業もあるかもしれないのですが、規模の大きさは成功を保証しないのです。
もしそうであるならば、今日、デュポンではなくアライド・ケミカルが、世界で最も業績のよい最大の化学品メーカーになっていたはずであり、1920年、アメリカで化学産業の開放期が始まった頃には、たとえ第1次大戦中、アメリカ政府によって没収された、ドイツの化学特許を手に入れたことが唯一の理由だったとしても、とにかくアライド・ケミカルが無敵の存在だったのですが、7年後の整理期の後、アライド・ケミカルは2流に落ち、以来、2度と活力を取り戻すことができなかったのです。
1949年当時、GEやジーメンスのような老舗の大企業が、コンピュータで失敗することはもちろん、IBMがコンピュータ産業の巨人として登場してくることさえ、予測できた者はおらず、1910年から14年にかけて、自動車株がニューヨーク証券取引所の人気銘柄だった頃、GMやフォードが生き残って成功し、当時人気の頂点にあったパッカードやハプモービルが姿を消すと予測した者はいなかった。
同じように、近代銀行が生まれた1870年代や80年代において、やがてドイツ銀行が、数十にのぼるドイツの老舗の商業銀行を吸収合併し、ドイツの代表的な銀行になることを予測した者はいなかったのです。
いかなる産業が重要な産業となるかは、容易に予測することができ、歴史を見るかぎり、ドラッカーが開放期と呼ぶ爆発的ブーム期を経験した産業はすべて、重要な産業となっていて、問題はそれらの産業において、どの企業が生き残り、主要な地位を占めるにいたるかであるのかですが、それは誰にも分からないのです。
以上のことより、マネッジメントはイノベーションを起こし、その成果を活用する企業にとって、欠くことの出来ない重要な要素であり、このことに気づいて、マネッジメントのレベルを高め続けている企業はいつしか、他のライバルの気付かないうちに、はるか遠くへ行くことが出来るのです。
気づかないで、マーケテイングとか、イノベーションに無関心な企業は、例え現在、素晴らしいポジションにあろうと、謳歌を楽しんでいようと、未来は明るくないのです。
◆ハイテクのリスクと魅力
投機熱を伴う開放期のあとに厳しい整理期が続くというパターンは、とくにハイテク産業で現れやすいのは、ハイテクは、ほかの平凡な産業に比べて、脚光を浴び、多くの新規参入と投資を引きつけるからであり、期待も大きいのです。
おそらく、ハイテクよりも靴墨や時計のような事業で金持ちになった人のほうが多いにちがいないのですが、誰も靴墨メーカーが10億ドル企業に育つことを期待はしないのです。
したがって、健全経営ではあっても小さな同族会社で終わることを失敗と見る人はいないのですが、これに対してハイテクは、中ぐらいの成功には何の価値もないという伸るか反るかの勝負であるので、そのゆえにこそ、ハイテクにおけるイノベーションには、大きなリスクが伴うのです。
しかもハイテクは、かなり長い期間、利益をあげることができず、コンピュータ産業は、1947年から48年にかけて始まったのですが、産業全体として見るかぎり、30年以上もたった1980年代初めまで、収支が合わなかったのです。
たしかに、アメリカの企業のなかには、早くから利益をあげはじめたところもあり、コンピュータ産業の雄たるIBMは、かなり早くから利益をあげていたのですが、産業全体で見るならば、これらわずかな数のコンピュータ・メーカーの利益は、世界の電機メーカーが、コンピュータ・メーカーへの脱皮という試みに失敗して蒙った膨大な損失をはるかに下回っているのです。
これと同じことが、コンピュータ前のハイテク、すなわち19世紀初めの鉄道、1880年から1914年にかけての電機メーカーと自動車メーカー、1920代のラジオ局にも起こったのです。
このようなことが起こるのは、調査、技術開発、技術サービスに多額の資金を注ぎ込まなければならないからであり、ハイテク企業は、たとえ現状を維持するためであっても、つねに速く走らなければならず、もちろん、これもハイテクの魅力であるのですが、このことは、整理期が訪れたとき、ごく短期の嵐を乗り切るのに必要な資金的余裕さえ、残している企業はほとんどないということを意味し、ほかの産業に比べて、ハイテク産業が、とくに資金的な見通しを必要とする反面、資金的な見通しが困難な原因は、ここにあり、この整理期に生き残るための処方は1つしかなく、マネジメントであるのです。
ドイツ銀行がほかの新しい銀行と比べて、際立った存在となりえたのは、ゲオルク・ジーメンスが、世界で最初のトップ・マネジメント・チームを構想し、それを実際につくりあげたからだったのです。
デュポンがアライド・ケミカルより際立った存在となったのは、1920年代の初め、体系的な組織構造や長期計画、それに情報システムを世界で最初につくりあげたからだったのですが、対して、アライド・ケミカルは1人の天才によって恣意的にマネジメントされていたのです。
しかし、これで話は終わらず、最近のコンピュータ産業における整理期に生き残れなかった大企業のほとんどは、GEやジーメンスなど、第1級のマネジメントをもつとされていた大企業なのであるのですが、しかも逆に、自動車産業の整理期において間違ったマネジメントが行われていたフォードが、たとえ辛うじてではあったにせよ、とにかく生き残ったのは、マネジメントもまた、生き残りの条件ではあっでも、保証というわけにはいかないのです。
しかも整理期がやってきたとき、ブームのうちに急成長を遂げた企業が、デュポンのように正しくマネジメントされていたか、それともアライド・ケミカルのように間違ってマネジメントされていたかを知りうるのは、その企業にいる人間だけであり(あるいは、彼らさえ知らないかもしれない)、そして、それを知る頃にはすべてが手遅れであるのです。
シンガポールの麺学校と日本の学校の一番の違いは、授業を日本語で行なうか、英語で行なうかで、日本の学校に海外から参加する日本語が理解出来ない生徒さんは、高い通訳料を払う必要があるのですが、シンガポールの場合は、すべて英語で授業を行なうので、通訳料が要らないのです。
従って、私も英語で授業を行ないましたが、来月の開校までに英語に翻訳しなければいけない資料がたくさんあることが分かりました。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。