本日のテーマは「経営幹部こそ、学ぶことが必須」です。
昨日までで、本社でのラーメン学校が終了し、いよいよ明日からシンガポールでのラーメン学校がスタートします。
昨日のラーメン学校最終日には、フィリッピンから来られたユーザーさまが、ラーメンの製麺講習に来られ、当社のスタッフから3種類のラーメンの製法を学んでいました。
日本人がフィリッピンで店舗を開いているのではなく、現地のフィリッピン人が3名研修に来ていて、フィリッピンですでに3店のラーメン店とカフェ等の飲食ビジネスを営業しているのですが、店舗の画像、商品の画像を見せて貰う限り、日本で営業しても負けないような革新的な店舗をしていたのです。
今後、毎月シンガポールへラーメン学校の指導で行くので、いつかフィリッピンへ寄ってみようと思っています。
フィリッピンへは、20数年前に1回だけマニラに行ったことがあったのですが、マニラの空港、泊まったホテル、レストランの治安状態を見て、2度と行きたいとは思わないし、スタッフも行かせられないと思ったのでした。
しかし、昨日来社したお客さまの話を聞く限り、その頃と比べると治安は改善されたとのことですが、まだ、自分が泊まるホテルには、空港に設置しているような金属探知機が設置してあるそうです。
いよいよ明日から、シンガポールでのラーメン学校がスタートするのに合わせて、社内でのさまざまな準備をしていく段階で、そして毎月、世界中から参加する生徒さんと接することで、私も当然ですが、当社のスタッフたちの負担も増え、スタッフたちの成長のための素晴らしいチャンスになるのです。
こうして、無理やりにシンガポールでのラーメン学校をスタートしたことは、当社の今後の展開において大きな財産になり、ラーメン学校だけでなく、直ぐにうどん学校もスタートするようになると思います。
昨年12月に決定し、今年の2月からスタート出来るのは、すでに日本で十分な実績を残しているから出来るのであり、国内でやっていることの横展開であるので楽なのです。
一番の課題は、私も含めて参加する3名の学校スタッフ(インストラクター)たちの英語のレベルで、今回のラーメン学校では、総勢6名のスタッフが参加し、通訳スタッフ3名の英語のレベルはTOEC950点以上で、ベトナム人、トルコ人、日本人と多彩なスタッフで、6名のうち日本人は、私を含めて3名だけで、残りは日本人以外です。
これからシンガポールでのラーメン学校が本格化すれば、常に外国人と接し、外国の文化、価値観、ビジネスの違いを学び続けるようになるのです。
これは、当社のスタッフたちにとっても、大きな刺激になると同時に、進化にとって大きな影響があるのです。
今の時代は、学び続けることが非常に重要な時代になり、学ぶことを続けない限り、ビジネスの現場で生き残ることは出来ないのです。
人間にとって、ビジネスにとって最高の戦略は、生き残ることでライバルより1日でも長く生き残ることこそ、重要なことであり、生き残っていれば何でも出来ますが、生き残っていないと何も出来ないのです。
昔は会社の寿命は30年と言われた時代がありますが、現在、日本とかドイツでは12年余り、アメリカでは8年、中国では3年余りと言われているのです。
だからそれだけに、これからの時代こそ、生き残ることを最大の戦略として、生き残ることに執念を燃やし続け、片時の油断もなく、学び続けることが要求されるのです。
ビジネス社会は、デジタル化によりリニアな世界から、エクスポーネンシャルな進化の社会になり、学び続ける会社とそうでない会社は圧倒的な差が付き、学び続ける人とそうでない人も、圧倒的な差が付く時代になっているのです。
人間は往々にして、上手くいっている時は、安心領域に閉じこもり、学ぶことを怠り易いので、そういう状態にならないように、敢えて安心領域でいられないようにすることが重要なのです。
従って、トップこそ最も学び続けることが重要ですが、併せて幹部の人たちも同様に学び続けることが欠かせないのです。
だから、幹部の人たちが強制的にでも学び続けることが出来る仕組みが重要で、学ぶことの大切さを理解しない幹部は、当然幹部から外れて貰わないと組織の崩壊に繋がるのです。
同時に、経営者にとっての最も大切な要素は責任感であり、これからは責任感の高い人ほど高いポジションに登ることが出来、責任感の乏しい人は幾ら能力があっても高いポジションに登ることは出来ないのです。
責任感の優劣は、幹部のポジションを測定する大きな目安になるのです。
次に経営幹部の重要な役割はリーダーシップで、リーダーシップの要諦は、もし、自分がそこに居なくなっても、後に続く人たちが自分を超え、立派に後を継ぐことが出来るようにすることであるのです。
幹部になる前の一般社員の間は、主に能力を伸ばすことに注力して行けば良いのですが、幹部に近づくにつれて、能力以外の人間的な要素がもっと重要になり、人間的なレベルを磨き続けることが、幹部にとっては大きな要素を占めるようになります。
従って、仕事をする上に重要なことは信頼で、信頼がなくなれば仕事を続けることは出来ないのです。
当社でも過去、たいへんな期待をかけ、時間とお金をかけて育ててきたスタッフが多数いましたが、途中で信頼をなくしてしまうと、一緒に働き続けることが出来ないのです。
丁度1年前の昨年2月21日から始まった、半年間以上に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びの最終のまとめに取り組んでいきます。
◆野心的な目標
この戦略は、必ずしも大事業になることを目指す必要はないのですが、つねに市場の支配を目指すので、ここで大切なことは、トップになる事は勿論、市場を支配することであり、われわれの身近な、誰でも知っている事例で言えば、市場を支配している事例は、ほとんど皆無に近いのです。
オートバイでは、ホンダが世界でトップですが、それでも大型のオートバイ市場では、ハーレー・ダビッドソンの1人勝ちで、こうしてみると、市場を支配することは、いかにたいへんかと言うことが分かるのと同時に、そのビジネスを始める初期の段階で、市場を支配することを、ビジネスの目的に加えるかどうかは、非常に重要なことであり、これでビジネスの勝敗が決まるのです。
ミネソタ州セントポールの3Mは、おそらく徹底的に検討したうえでの方針として、大事業になるようなイノベーションには取り組まず、保健衛生用品のメーカーであるジョンソン・エンド・ジョンソンも同じであり、両社は、大事業ではなく、中くらいの事業に発展するようなイノベーションを行ってきているのですが、市場の支配は目指しているのです。
以上の様に、十分に規模の大きい大企業であっても、支配出来る市場にしか参入して来ないのは、マネッジメントの基本を忠実に守っていて、この戦略は企業だけのものではなく、社会的機関も使うことができ、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトが、1809年にベルリン大学を創設したときにとった戦略がこれで、ナポレオンに負けたあとのプロイセンは、国家として崩壊寸前の状態にあり、すでに政治的、軍事的、財政的には破綻していて、ヒトラー敗北後の1945年頃のドイツと同じだったのですが、彼は、当時最大の大学の3、4倍の規模をもつ、西洋史上最大の大学をつくり、最高の哲学者ゲオルク・W・F・ヘーゲルをはじめ、あらゆる分野にわたって、最高の学者を招き、ナポレオン戦争による名門大学の閉鎖に伴い、一流の学者さえ乞食になりかねない時代に、それまでの報酬の10倍を払ったのも、市場の支配と言うことを前提に戦略を立てれば、当然のことであったのです。
そのおよそ100年後の今世紀初め、近くに大都市はおろか、医学校もないというミネソタ州の片田舎ロチェスターの町で、2人の兄弟の外科医が、新しい、異端的ともいうべき、一流の専門医がチームをつくり、一流の治療を行うという考えのもとに、医療センターをつくり、今日、科学的管理の父とされているフレデリック・W・テーラーは、メイヨー兄弟に会ったことはなかったのですが、彼は、有名な1911年の議会証言において、メイヨー・クリニックの名を、唯一の完全にして、かつ成功している科学的管理の例として挙げ、この無名の2人の外科医もまた、初めからその世界におけるリーダーの地位を目指し、あらゆる分野の一流の専門医、とくに才能のある若手の医師を集め、高額の治療費を払える患者を集めたのです。
そのさらに25年後、マーチ・オブ・ダイムズが、小児麻痺研究のために同じ戦略をとり、1つ1つ知見を積み上げるのではなく、この不可解な病気を一気に克服することを目指し、研究計画の一部を各地の研究機関に委託するという、前例のないオープンな研究所をつくり、この様に、市場の支配とイノベーションは切っても切り離せない条件があることがよく分かり、マーチ・オブ・ダイムズは、政府の研究開発プロジェクト、原子爆弾やレーダー、近接電波信管の開発計画、さらにはその15年後の有人月着陸飛行計画のモデルとなったのです。
これらのすベてが、「総力による攻撃」の戦略を採用し、これらの例は、この戦略には野心的な目標がなければ失敗することを示していて、この戦略は、つねに新しい産業や市場そのものを創造することを目指し、少なくともそれは、メイヨー・クリニックやマーチ・オブ・ダイムズのように、新しいシステムを生み出すことを目指すのです。
デュポンは1920年代の半ばに、化学者カロザーズを迎え入れたとき、新しい化学産業をつくると宣言はしなかったのですが、デュポンの内部文書によれば、当時のトップ・マネジメントが新しい産業を生み出そうとしていたことは明らかであり、彼らはカロザーズの研究が簡単に成功するとは思っていなかったが、成功した暁には、単なる新製品や製品ラインを超えたものをつくり出すつもりでいたのです。
以上の例からも、以下の例からも、枠を大きくし、社会を変えることがイノベーションによる成功と密接に繋がっていて、「未来のオフィス」という言葉をつくったのは、ワング博士ではないのですが、彼はその最初の広告のなかで、新しいオフィス環境やオフィス労働を説いていたのです。
デュポンもラングも初めから、自らがつくり出した産業において、支配的な地位を得ることを目指していたのですが、この戦略の意味するところを最もよく表している例は、むしろ企業ではなく、フンボルトのベルリン大学であり、フンボルトが実際に関心をもっていたのは、大学それ自体ではなく、彼にとって大学は、18世紀の絶対君主制でもなければ、ブルジョアが支配するフランス革命の共和制でもない、新しい政治体制をつくり出すための手段であり、彼が目指したのは、能力によってのみ採用され、昇進する完全に中立的な職業公務員と、同じように完全に中立的な職業軍人が、それぞれきわめて限定された領域において、独立性を維持するというバランスから成り立つ政治体制だったのです。
今日われわれがテクノクラートと名づけるそれらの人たちは、法の支配のもとにおかれ、彼らは、それぞれ限定された領域のなかでは完全に独立した存在として機能し、そのとき、ブルジョアには2つの自由が保証され、1つが精神的、文化的自由であり、1つが経済的自由であり、すでにフンボルトは、この考えを、その著『政府の有効性の限界』において明らかにしていたのです。
1809年当時、君主制がナポレオンに屈したあとのプロイセンでは、フンボルトの考えにとって障害となっていた勢力、皇帝、貴族、軍が無力化していて、彼はその機会をとらえ、自らの政治理念を実現するための核として、ベルリン大学を創設し、事実、ベルリン大学は、19世紀のドイツが「法治国家」と呼んだ独特の政治体制をもたらし、政治と軍の領域では、強大な高級官僚と参謀将校からなる自律的なエリート集団が力をもち、文化の領域では、教育ある人たちからなる同じく自律的なエリート集団が自治的な大学を中心にリベラルな文化を育て、かつ経済の領域では、規制から自由な自律的経済活動が実現されたのです。
そのような体制のもとにプロイセンは、ドイツにおいてまず初めに知的、文化的な面で優位に立ち、間もなく政治的、経済的に優位に立ち、さらには、ヨーロッパ大陸でリーダーシップを握り、やがて大陸の外のイギリスやアメリカからの賞賛を得るにいたり、実に1890年前後まで、プロイセンの君臨するドイツはイギリスとアメリカにとって1つの文化的、知的モデルとなり、これこそまさに、フンボルトが敗北と絶望の時代のなかで構想し、目指したもので、事実彼は、その目指すものをベルリン大学の設立趣意書と憲章のなかで明らかにしていたのです。
国造りの基礎は、教育であり、明治維新をアジアで唯一成功裏に乗り越えることが出来たのは、江戸末期に各地にあった藩校の存在を抜きにして語ることが出来ず、企業も同じく、教育を外して、企業作りは考えることが出来なく、まず、人を選ぶことと、継続した教育、進化し続ける教育は欠かすことが出来ないのです。
昨日は本社でのラーメン学校の最終日で、生徒さんたちのスープの最終チェックと盛り付けまで含めた作品のチェックを行ないました。
最近の生徒さんのレベルは以前とは比較にならないくらい良くなり、最終日に私が手無しする回数は非常に減り、私の時間が非常に短縮されるようになっています。
これも当社のインストラクターたちのレベルの向上が原因で、ますます短期間で生徒さんたちをプロにしているのです。
画像は、昨日、フィリッピンからのお客さまのために私が作ったラーメンです。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。