本日のテーマは「これからの麺ビジネスの未来」です。
昨日は朝から、4年前に訪問した中国の蘭州からのお客さまが8名来社し、午前中は、お客さまの応対をずっと行っていたのです。
蘭州はラーメン発祥の地として有名な場所で、4千年前の遺跡からラーメンを食べていた痕跡が発見されるほど、世界で一番古いラーメン発祥の地であり、人口650万人程度の都市ですが、市内には至るところに蘭州ラーメンの店があり、一番来客の多い店は今回来社されたお客さまの店で、1日6千人の来店があるほどです。
ラーメンのスープは牛肉のブロックを大鍋で煮て、それに塩味だけで食べるのが基本ですが、唐辛子等の辛い香辛料を使った味付けもあるのです。
トッピングは、大鍋で煮た牛肉を薄くスライスしたものと野菜類は主で、蘭州ラーメンの牛肉がトンコツとか鶏ガラに変わったのが、日本における一般的なラーメンなのです。
麺の製法は、特殊なカンスイと水で捏ねた麺生地を棒状にして、それを手延べの製法で、両手で引っ張りながら細く伸ばしたもので、元々1本の麺線を2本、4本、8本と両端を合せながら、さらに細く伸ばし、32本程度の太い麺から、64本、128本と細い麺まで、何回繰り返すかによって、麺の太さは異なるのです。
麺の茹で時間も非常に短く、細い麺であれば、茹で釜に放り込み、しばらく浮いている麺をすくって、スープを張った丼に入れて提供するのです。
1日に6千食も提供する店舗には、6人ほどの手延べ職人がいて、お客さまの目の前で手延べの実演をしながら提供しているので、さながら、戦場のようなようすです。
今回も蘭州ラーメンの人たちが当社に来社されたのは、たいへんな手作業を機械化出来る方法はないだろうかとの視察であったのです。
麺料理は価格の高い料理ではないにも関わらず、蘭州ではまだ人件費コストが日本ほど高くないので、手作業で麺作りを行なって採算が取れているのですが、中国でも人件費が上昇しているので、機械化はこれからは欠かせないようです。
しかし、今までは手延べ職人による実演効果があったはずなので、それを機械化するには、お客さまに与えるイメージを考える必要があるのです。
日本におけるラーメンの歴史は比較的に新しく、日清戦争後に多くの中国人が日本の各地に渡ってきて始まったので、まだ高々100年程度の歴史しかないのですが、日本ではラーメンの製造は機械で行なわれていたので、機械製麺に関して、業界人もお客さまもぜんぜん抵抗がないのです。
併せて、麺を機械で安価に大量に作ることが出来るようになり、日本のラーメンが世界中に広がる原因になったのだと思えるのです。
日本の麺類の中では蕎麦が古くから親しまれているのですが、蕎麦が海外に広まらない大きな原因は、蕎麦はもともと手打ちであるとのイメージが強すぎるような気がします。
手作りは手作りの良さがあるのですが、日本文化として、広く世界中に広めるためには、ある程度のコストで良質な麺を量産する技術が欠かせないのです。
今まで、多くの人たちの常識の中にあるのは、手作りと機械で作るのには品質の差が大きいとの考えが根強いのですが、私は製麺の原理原則を科学的に分析し、製麺の本質を理解しながら、機械に置き換えていったのです。
麺は小麦粉の芸術作品と呼ばれ、製麺の本質とは、小麦粉の持っている特性を活用しながら、最大限に引き出し、食べた時の食感、味、見た目のきれいさ、スープとのバランス等、芸術そのモノなのです。
最近も海外に日本のラーメン、うどんが広まり続けているのですが、麺打ち職人が広めているのではなく、必ず、裏方として製麺機の存在があるのです。
40年前に私が創業した頃に製麺機に要求された機能は、その頃はプロの職人が機械を使っていたので、麺打ち職人の労力を出来るだけ軽減出来るような機能であれば良かったのです。
当然、麺の美味しさは重要であったのですが、今日のように、安全性、使い易さ、機械のデザインの良さ、掃除のし易さ、コンパクトさ等は要求されておらず、むしろ、価格の安さは重要な事項であったのです。
当社の製麺機ビジネスも40年間で大きく変遷してきたのですが、それ以上に、お客さまの麺ビジネスも大きく変遷し、パパママストアが当たり前であった麺ビジネスが企業の参入するビジネスに大きく変遷したのです。
そして、お客さまの麺ビジネスが今後どのように大きく変遷していくかを占う大きなカギは、今回たまたま来社された歴史のある中国の蘭州ラーメンの現在と、日本の歴史の浅いラーメンの進化の歴史を振り返ってみると、良く分かり、われわれは時代の変化の大きな波間に漂っていることが分かります。
時代の変化に乗り、われわれが成長出来るチャンスは至るところに転がっているのですが、それを掴み切るのは、深い思考以外にはないのです。
本日も当社の価値感を掲げ続けます。
1. 顧客に深くフオーカスし、絶えざる奮闘精神で、苦しい奮闘を長期にわたって続ける(顧客との深いコミュニケーション)
2. 自己批判(内省、フィードバック、自己とのコミュニケーション)
3. オープンな姿勢と進取の精神(アライアンス、イノベーション)
4. 効率の追求(利益、コスト)
丁度1年前の昨年2月21日から始まった、半年間以上に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びの最終のまとめに取り組んでいきます。
4特有のリスク
綿密な分析、明確な戦略、意識的なマネジメントをもってしても、知識によるイノベーションには特有のリスク、特有の不確実性が伴い、そもそもそれは、本質的に乱気流の世界であり、知識によるイノベーションは、すでに述べたように、リードタイムの長さと、異なる知識の結合という特有のリズムをもつのです。
『新産業の開放期と整理期』
まず最初に、きわめて長期にわたって、今にもイノベーションが起こりそうでありながら、何も起こらないという期間が続き、そして突然、爆発が起こり、数年間にわたる「開放期」が始まり、非常な興奮と事業の乱立が見られ、華々しく脚光があてられ、そして5年後には「整理期」が始まり、ごくわずかな企業だけが、生き残るのです。
1856年、ドイツのヴェルナー・ジーメンスが、25年前の1831年にマイケル•ファラデーが発展させた電気理論を応用して、最初の電気モーターを設計し、世界的な反響を呼び、やがて電機産業が生まれ、しかもそれが大きな産業になることが確実となり、多くの科学者や発明家が働いたのですが、その後の22年間は何も起こらなかったのです。
そこには、ある1つの知識、すなわちマクスウェルによるファラデーの理論の発展が必要であり、マクスウエルの理論が得られるや、1878年、エジソンが電球を発明し、レースが始まり、その後の5年間に、欧米の主な電機メーカーのすべてが設立されたのです。
ドイツではジーメンスが小さな電機メーカーのシュッケルトを買収し、AEGがエジソンの発明をもとに設立され、アメリカでは、GEとウエステイングハウスの前身が設立され、スイスではブラウン•ボベリが、スウェーデンでは1884年にASEAが設立されたのです。
これらの企業は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、オランダ、ベルギー、スイス、オーストリア、チェコ、ハンガリーなどの国々で、やがて10億ドル企業となることを期待され、投資された100社にのぼる企業のごく一部にすぎないのです。
サイエンス•フィクションの最初のブームをもたらし、ジュール•ヴェルヌやH・G•ウェルズを世界のベストセラー作家にしたのも、この電機産業の勃興だったのですが、1895年から1900年にかけて、それら新規の企業のほとんどが姿を消し、撤退し、倒産し、あるいは吸収されたのです。
自動車産業でも、1910年当時にはアメリカだけで200社のメーカーがあったのですが、1930年代には20社となり、1960年には4社となったのです。
ラジオについても、1920年代にはラジオ局が数百局、ラジオ・メーカーが数百社あったのですが、1935年にはラジオ放送の主導権は3大ネットワークに握られ、メーカーの数も1ダースほどになったのです。
新聞もまた、1880年から1900年にかけて創刊ブームがあり、当時、新聞は最大の成長産業の1つであったのですが、第1次大戦後、主要国のすべてにおいて、新聞社の数は減る一方であり、現在はインターネットの浸透により、更に発行部数の減少速度を速めているのです。
銀行についても同様で、モーガン、ジーメンス、渋沢など近代銀行の父たちに続いて、ヨーロッパと同じようにアメリカでも、爆発的な銀行の設立ブームがあったのですが、わずか20年後の1890年前後には、銀行の集約化が始まり、廃業や合併が続き、第一次大戦が終わる頃には、あらゆる主要国において、全国銀行は、その種類を問わず、わずかな数となったのです。
しかし、いずれの場合も、生き残った企業は例外なく、初期のブーム時に生まれたものであり、ブームのあとでは、新規参入は事実上、不可能となるのです。
知識にもとづく産業には、数年間にわたって、新設のベンチャー・ビジネスが逃してはならない「開放期」があるのです。
今日、この「開放期」は短くなってきたと見られているのですが、そのような見方は、新しい知識が技術、製品、プロセスとなるまでのリードタイムが短くなってきたという見方と同じように、まったくの誤りであるのです。
イギリスでは、1830年にジョージ•スティーブンソンのロケット号がはじめて営業用の列車を引いた後の数年間に、100社以上の鉄道会社が設立され、その後、ほぼ10年間、鉄道はハイテクの地位を与えられ、鉄道の起業家たちがマスコミにもてはやされ、鉄道に対する投機熱は、チャールズ•ディケンズの小説『リトル•ドリオット』(1855~57)において鋭く風刺されました。
それは、今日のシリコンバレーの投機熱に似ているのですが、1845年頃、突然、鉄道産業の「開放期」が終わり、以来、イギリスにおいて鉄道会社はまったく設立されておらず、50年後には、1845年に100社にのぼっていた鉄道会社も5、6社に減ったのです。
家電で電話、自動車、化学でも同じ周期が見られ、新規参入のための「開放期」が長かったことなど一度もなかったのです。
しかし今日、この「開放期」が混み合ってきたことはまちがいなく、1830年代の鉄道ブームはイギリス国内に限られていて、どこの国でも、鉄道ブームは、近隣諸国のブームには関係なく起こり、これに対し、その後の電機ブームは、その25年後の自動車ブームと同じように、国境を越えて広がったのですが、それでもそれらのブームが、当時の先進国の枠を越えることはなかったのです。
しかし今日では、そもそも先進国なるものの数が、はるかに増え、たとえば、日本があり、ブラジルがあり、非共産圏の中国系の地域、香港、台湾、シンガポールがあり、しかも通信は瞬時に行われ、旅行も簡単で早くできるようになったのです。
さらに今日では、きわめて多くの国が、100年前には、ごくわずかの国しかもたなかったもの、すなわち知識をもつ人、とくに科学や技術によるイノベーションのために、直ちに働きはじめる用意のある訓練された人材をもっているのです。
上記のように、知識によるイノベーションの場合、常に「解放期」が起こり、多くの企業が参入し、その後の「整理期」でほとんどの企業が淘汰されることを繰り返しているのです。
イノベーションを起こした産業は、電気、鉄道、自動車のような産業から、スタートを切り、最近では、小さな産業に軸足を移しているのです。
例えば、ダイソンがサイクロン方式で、最初に掃除機業界にイノベーションを起こしたのですが、その後、幾つかの国内の家電メーカーが参入しました。
徐々に、サイクロン方式は、ダイソン1社に絞られてきているのです。
次に、ルンバがロボット掃除機として、登場し、現在、同じく国内の家電メーカーが似たようなロボット掃除機を開発し、販売を開始していますが、何年か後には整理期になり、最終的には1社か2社に淘汰されるはずです。
スマート・フォーンは現在、解放期にあり、多くのメーカーの参入が続いていて、そのうち、整理期に入り、数社に絞られてくる可能性が高いのです。
ドラッカーが何十年も前にまとめたように、知識によるイノベーションは、必要な知識が出揃った時に、爆発的に解放期が始まり、多くの参入者が現れ、解放期がしばらく続いた後、整理期が訪れて、ほとんどの参入企業は淘汰されてしまうのです。
昨日は、朝から蘭州ラーメンの一行8名様が来社し、讃匠の麺工場、製麺機工場、ラーメン学校の案内を行なった後、当社の事業の案内、その後、オーガニック食堂で、昼食を取ったのです。
昼食の後、うどんを食べたいとの要望があり、私が麺打ち、茹でを行なうと、うどんの美味しいに驚き、蘭州ラーメンの麺とうどんとの食感の共通性に気づいたようです。
今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。